関連ページは、「現代不法行為法理論」の中の「経済学的抑止論」(Economic Deterrence Theory)
Susumu Hirano, Professor of Law, Faculty of Policy Studies, Chuo University (Tokyo, JAPAN); Member of the New York State Bar (The United States of America). Copyright (c) 2015 by Susumu Hirano. All rights reserved. 但し作成者(平野晋)の氏名&出典を明示して使用することは許諾します。 もっとも何時にても作成者の裁量によって許諾を撤回することができます。 当サイトは「法と経済学」の研究および教育用サイトです。
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ジョン・ロールズによる批判 〜公正としての正義、分配に於ける正義、他〜
「規範的法哲学者」(normative legal philosophers)とは…
ドゥオーキンによる批判
「法と経済学」と「シカゴ学派」の歴史
アメリカ法学に於ける学際研究の歴史と、法と経済学とカラブレイジ
「パレート最適」よりも「カルドア・ヒックス効率」の方が「法」の経済的分析に適する理由
【未校閲版】without proof
〈前回の続き〉
"The law must be stable, but it must not stand still."
by Roscoe Pound
「コースの定理」(Coase Theorem)(id.at 239-54.)からの引用と巨視的な視点の重要性
『アメリカ不法行為法』 at 1. 「. . . those actions of business firms which have harmful effects on others」 → E.g., 自動車という製品分類は人身損害を数多く生み出しているのに、なぜ法律で禁止されたり欠陥扱いされないのか?
<法と経済学序論・経済学のイントロダクション>
巨視的(macroscopic)な(i.e., 社会的な目標から望ましい法を探る)点に於いて、これまでの(因習的な)法律学の以下の特徴に対峙: @当事者間の利益衡量を量る、A条文・文言解釈。 ("i.e."="id est"="that is")
法律学: 判例分析を通じた解釈の一貫生の発見(クーター&ユーレン, infra, at 11.)。
法と経済学: 極大化、均衡、効率、等々の概念は法にとっても重要(クーター&ユーレン, infra, at 13.)。 ∵法が基準として求める「合理的」(reasonable)人間行動を説明する基本概念である。(クーター&ユーレン, infra, at 15.)
- 経済学では同じ「合理」でも、「rational」という。目的が反社会的でも、手段が不道徳でも、「rational」たり得る(クーター&ユーレン, infra, at 15.)。 ← 「利」に適った… See 『アメリカ不法行為法』 at 307-08. すなわち「合“利”的」と訳すべきもの(平野)。
- 法律学では「合理」とは、「reasonable」という。他者の利益を自己利益同様に尊重したり、社会で共有される価値観や規範を守ることも要求される(クーター&ユーレン, infra, at 15.)。 ← 「理」に適った… See 『アメリカ不法行為法』 at 307-08.
- 尤も法律学に於いても効率性等は「reasonableness」の要素の一つのはず(クーター&ユーレン, infra, at 16.)。
- 近年では「合理的選択論」:"rational choice theory"(『アメリカ不法行為法』 at 216 n.10)への懐疑("bounded rationality":限定合理性, id. at 352-53.)も提示されてきている。 → 「法と認知科学」 E.g.,「omission bias(不作為性向)」:例えば、ワクチン注射を子供に接種させる作為で万が一でも死ぬリスクを回避する為に、摂取させないという不作為を選択してしまい、結果的には感染による高い死亡のリスクを選択してしまうのは、「合利的」ではないirrationalな判断=自己利益に反する判断。平野晋「イースターブルック判事の法廷意見と『法と行動科学(認知心理学)』」『民事司法の法理と政策(下巻)』244頁(商事法務、2008年) 更に、「不合理」unreasonableな思考の例としては、ケネディー大統領のピッグス湾事件の失敗に関する演説:「"勝利" には自称 "父親" が沢山名乗りを挙げるけれども、"失敗" は孤児である。」"Victory has a hundred of fathers and defeat is an orphan." cited in id. at 236.→ 成功は自分の手柄にしたがるけれども、失敗は他人のせいにしたがる不合理な人間=「帰属の誤り」="attribution error"。(『アメリカ不法行為法』 at 401-02.) その他の例: 離婚率が50%のアメリカで、結婚したてのカップルは、将来自分たちは絶対に離婚しない、と不合理な判断をしている!? ((『アメリカ不法行為法』 at 375 (self-serving bias).))
法と経済学は、「ホモ・エコノミカス」(homo economicus:[合“利”的]経済人)(*)を前提として来た。(∵その方が思い描きやすいから?!See WITTMAN, at 16.)
(*)「ホモ・サピエンス」(homo sapiens)をもじった造語。 利己利益追求のみを目的として、合理性を手段として、行動する人の意。 See 友野『行動経済学』infra, at 10-11, 14.. すなわち平野の言うところの「合“利”人」。
稀少ゆえに、稀少資源(scarce resources)の効率的な配分(allocation)という選択・決定が重要に成る。 COOTER & ULEN, infra, at 15.
→ 次段落の「合理的選択理論:rational choice theory」 や、「需要の理論」を参照。
以下、拙書 『アメリカ不法行為法』at 215頁以降(第二部、第I章、第一節以下参照)。
「市場」"market"とは…。 See『アメリカ不法行為法』at 217(「財や役務が交換される場」). 法と経済学(ミクロ経済学*1)の特徴は、「市場」の機能を用いること。 なお「財」(goods & services)とは、広義では「何らかの効用(消費で得られる満足)を有するもの」の意で、狭義(goods)では役務に対比される「有形物」の意。
(*1) 「ミクロ経済学」と呼ばれる理由は、最小単位の経済主体(家計・消費者と企業・生産者)を扱うから。←→「マクロ経済」は一国の経済全体を扱う。 / 「厚生経済学」は、社会全体の厚生(福利)の極大化を研究する。
「極大化」"maximization" 全ての経済主体にとっての目的が極大化。 企業は利潤の、消費者は「効用」(以下)の、極大化を目指す。 See『アメリカ不法行為法』at 216-17. 殆どの人々は合「利」的(rational)であり、合「利」的ならば極大化を求めるはずなので、法と経済学は人々[含、事業者;経済主体]が極大化を目指すことを前提にしている。制限("constraints")内の中に於ける最高の選択肢(the best alternative)を選択することを極大化していると言う。→「合理的選択理論」("rational choice theory") COOTER & ULEN, infra, at 15; 『アメリカ不法行為法』at 349 & n.3 (合理的選択理論に対する認知科学的批判).
「効用」"utility"/「選好順序」(preference ordering)、満足、幸福、快楽、等々。 クーター&ユーレン(太田勝造訳) 『法と経済学(新版 )』, infra, at 33.
「合理的選択理論」」("rational choice theory") --- 前提: 人は合「利」的であって、安定した選好を抱き、かつ順序を付けることができる。経済学者は簡略化して以下のように表す。
See WITTMAN, ECONOMIC FOUNDATIONS OF LAW AND ORGANIZATION, infra, at 10.
See平野晋『アメリカ不法行為法---主要概念と学際法理』342-44頁(中央大学出版部、2006年)の第二部、第II章.
「法と経済学」および「批判的法学研究」(CLS: critical legal studies)との比較に於いて、第三番目の法の原理的な学派としてのジョン・ロールズのことを、倫理哲学的に不法行為法を分析する指導的学者のGeorge P. Fletcherは以下の論考に於いて次の様に指摘しています。
出典: George P. Fletcher, Why Kant, 87 COLUM. L. REV. 421 (1987).
- 非功利主義者的な諸価値(nonutilitarian values)に法の原理を置こうと試みる第三のグループは、「規範的法哲学者」(normative legal philosophers)と呼ばれる。彼等は以下の二つの前提に立っている。@効用と効率を凌駕する「権利」を個人が有していること。および、A規範を構築することによって倫理的生活と法的生活を形成することが可能であること。
- 以上の前提に立つ中心的な著作は、JOHN RAWLS, A THEORY OF JUSTICE (1971)である。
- ところでロールズの「原初状態」の方法(Rawls' method of the original position)は、一方当事者が他方当事者を不適切に侵害乃至加害したか否かという典型的な民事法律紛争を解決する為のルールを余り教えてくれない。何故なら原初状態に於いては、カガイシャとヒガイシャの双方を満足させるようなルールを採用する余地など存在しないからである([T]here is no way in the original position to adopt a rule that would be satisfactory to both transgressor and victim.)。
Fletcher, Why Kant, supra, at 428-29.
有名な批判は、ドゥオーキンの以下の論文です。
Ronald M. Dworkin, Is Wealth a Value?, 9 J. LEGAL STUD. 191 (1980).
「法と経済学」は、社会に於ける富の極大化を善として、それ自体が目的化しているようです。
しかし、富の極大化自体が何故、善なのでしょうか?
法が本来目指すべきは、「福祉の極大化」(welfare)であるべきです。
「法と経済学」という比較的新しい学際的学問分野の出現に於いては、いわゆる「シカゴ学派」(Chicago School)がその勃興に貢献したという指摘を、しばしば目にします。
それでは一体、その法と経済学のシカゴ学派というものはどのように出現したのでしょうか?その歴史を簡潔に示すものとして、以下の論考の中から紹介しておきましょう。
出典: Minda, James Boyd White's Improvisations of Law As Literature, infra, at 157, 168-170.
アメリカでは古くから学際的に法律学を研究していた点を、倫理哲学的に不法行為法を分析する指導的学者のGeorge P. Fletcherが、以下の論考に於いて次の様に指摘しています。
出典: George P. Fletcher, Why Kant, 87 COLUM. L. REV. 421 (1987).
(n.17)Calabresi, Some Thoughts on Risk Distribution and the Law of Torts, 70 YALE L. J. 499 (1961).
(n.18) K. LLEWELLYN & E.A. HOEBEL, THE CHEYENNE WAY (1941).
この点についても、前掲George P. Fletcherが、以下の論考に於いて次の様に指摘しています。
出典: George P. Fletcher, Why Kant, 87 COLUM. L. REV. 421 (1987).
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"[E]very lawyer ought to seek an understanding
of economics" because [w]e learn that
for everything we have to give up something
else, and we are taught to set the advantage
we gain against the other advantage we lose,
and to know what we are doing when we elect.
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Oliver W. Holmes, The Path of the Law, 10 HARV. L. REV. 457, 474 (1897) cited in
Stephen G. Gilles, The Invisible Hand Formula, 80 VA. L. REV. 1015, 1042 (1994).
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