Revised on Oct. 23, 2013.
Susumu Hirano; Professor, Faculty of Policy Studies, Chuo
University (Tokyo, JAPAN); Member of the New York State Bar (The United
States of America) .
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【未校閲版】without proof
事故が発生しても、アメリカ人は謝罪しない。その理由の一つとして、謝罪が後の民事訴訟で不利に扱われる点が指摘されている。
すなわち、謝罪の言葉が、後に裁判に至った際に、被告自身の過失・落ち度を証明する証拠として採用されるおそれがあり、従って弁護士も謝罪の言葉を言わないように依頼人を指導する慣行が、謝罪の表明をためらわせ、却って紛争を悪化させて訴訟に繋がるという悪循環を生んでいる。 (後掲「アイムソーリー法が無ければ謝罪が原則として証拠採用されてしまう根拠法(連邦証拠法)」参照。)
この問題を治癒する為に、謝罪が後の訴訟で不利な証拠とならない特別法が35の州と特別区にて制定され、「Sorry Law」「Apology Laws」「I'm Sorry Laws」等と呼ばれている。そのSorry Lawと、訴訟に於ける「謝罪」の意味を、以下のように探ってみた。
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主な目次:
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最初にアイムソーリー法を制定したマサチューセッツ州の条文
医療過誤に限りアイムソーリー法が制定されている州の例
謝罪の言葉は不利に扱わないけれども、落ち度(fault)を認める言葉は不利に扱い得る(証拠排除しない)アイムソーリー法を制定する州の例
落ち度(fault)を認める言葉も不利に扱わない(証拠から排除する)アイムソーリー法を制定する州
落ち度(fault)を認める言葉を不利に扱い得る否か(証拠認容するか否か)を文言上区別しない州
アイムソーリー法が無ければ謝罪を不利に扱う(原則として証拠採用する)根拠法(連邦証拠法)
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「謝罪」の意義
謝罪の定義 (効果的な謝罪) / 「法と経済学」的考察 / 修復的過程(restorative process)一つとしての「謝罪」(apology) / 非を認めることで「不均衡」を修復させる謝罪 --- 自己奉仕的・自己温存的傾向を捨て去る「謝罪」と「赦し」こそが協調的人間関係修復に繋がる / 謝罪の意味と真正な謝罪 / 「罪を認めること」(acknowledgment)と違反者の社会復帰・謝罪の文化的意義 --- 個人主義的社会では訴訟が多発する?! / 「謝罪」は偽ることが容易だから、金銭賠償負担等の義務を課して謝罪の真正性を担保させることが必要である / ヒガイシャは謝罪だけを求めるのではなく、金銭賠償をも求める
金銭賠償が原則である理由
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復讐、「血の宿恨」 --- 海外でも存在する「土下座」の概念?!
「敵を跪(ひざまず)かせる」こと(土下座?!)により苦痛を和らげる ---- 応報、屈辱、復讐 / 加害者へ「制裁」を与えることが、不法行為法の「修復的」[効果の]可能性(the restorative potential)を高める
カガイシャに対抗する「矯正的権能」(coercive empowerment)をヒガイシャに付与し、「衡平」(equity)への要請に資する ---- empowerment theory and equity theory / 手続的正義 ---- “To Make One's Day in Court(法廷に於ける審理の機会の付与)” / 人々は真摯に扱われることを知りたいのである---手続的正義も謝罪もその欲求を満たしている
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「法と文化人類学」的考察
不法行為責任の文化人類学的な起源 ---- 謝罪+財の支払義務、関係の均衡修復
「為(な)し手は、為しただけのことを、報いとしてその身に受ける」(古代ギリシャ人の「復讐=正義」という正義観)
カガイシャが自己変革して他の同様な被害発生を防止することもヒガイシャは求める
責任解明が苦痛を和らげる
被害の原因を「他人の所為(せい)」にする者は12倍も提訴しがちである
賠償(不法行為責任)の抑止機能への懐疑
刑事責任の不法行為責任との違い
罰を与えることや賠償を得ることよりも、謝罪こそが被害者にとってしばしば最も価値ある事柄である。
以下のアンケート・実証実験は、謝罪が民事事件に於ける和解の促進と賠償・示談額の抑制に効果的であることを示している。:
O'Connor at 1966-67, 1977-78. 謝罪によって訴訟提起の蓋然性が低下するという指摘については、 see also Rachlinski & Chris Guthrie at 1192.
[To be filled.]
Robbennolt, at ___; _Pearlmutter, at 697.
謝罪には、怒りを和らげる効果がある。被害者は、加害者をもはや個人的な脅威と認識せずに済むので、感情的な治癒の効果が生まれる。血圧も下がり、心臓の鼓動も落ち着き、呼吸も和らぐ。
Saitta & Hodge at 94-95 (Beverly Engel, The Power of Apology, PSHYCHOLOGY TODAY, Jul. 1, 2002を出典表示しつつ). See also Rachlinski & Guthrie at 1195 (次のように指摘している: "Effective apologies convince the victim or victims that the wrongdoer's conduct should not be taken as evidence that the wrongdoer is as blameworthy as the conduct otherwise might imply.[] Apologies are intended to convince the recipient that the transgressor's actions reflect a less malevolent mental state or that the rransgressor's long-term procivilities are not as destructive as his or her exhibited bahavior would suggest.[]") (emphasis added)(citation omitted).
アリゾナ(医療過誤に適用)、コロラド(同左)、コネチカット(同左)、カリフォルニア、デラウエア(医療過誤に適用)、コロンビア特別区(同左)、ジョージア(同左)、アイダオ(同左)、イリノイ(同左・72時間以内の謝罪のみを保護)、アイオア(医療過誤に適用)、フロリダ、ハワイ、インディアナ、ルイジアナ(医療過誤に適用)、メイン(同左)、メリーランド(同左)、モンタナ(同左)、マサチューセッツ、ミズーリ、ネブラスカ(医療過誤に適用)、ニューハンプシャー(同左)、ノースカロライナ(同左)、ノースダコタ(同左)、オハイオ(同左)、オクラホマ(同左)、オレゴン(同左)、サウスカロライナ(同左)、サウスダコタ(同左)、ユタ(同左)、ヴァーモント(同左・30日以内の口頭による謝罪のみを保護)、ヴァージニア(医療過誤に適用)、ウエストヴァージニア(同左)、ワイオミング(同左)、テネシー、テキサス、ワシントン州。
Pearlmutter, at 689, ____; Robbennolt, at 356 n.21, 700, 701.
上記から明らかなように、アイムソーリー法を制定する大多数の州は、医療過誤に限って謝罪を不利に扱わない制定法を採用している。
最初にアイムソーリー法を制定したマサチューセッツ州の条文は以下の通り:
"Statements, writings, or benevolent (博愛・慈愛の) gestures expressing sympathy or a general sense of benevolence relating to the pain, suffering or death of a person involved in an accident and made to such person or to the family of such person shall be inadmissible as evidence of an admission of liability in a civil action."
Mass. Gen.Laws Ann. Ch. 233, §23D (west 1986)(emphasis & trans. added).
Robbennolt, at 356 n.22.
アリゾナ、コロラド、コネチカット、デラウエア、コロンビア特別区、ジョージア、アイダオ、イリノイ、アイオア、ルイジアナ、メイン、メリーランド、モンタナ、ネブラスカ、ニューハンプシャー、ノースカロライナ、ノースダコタ、オハイオ、オクラホマ、オレゴン、サウスカロライナ、サウスダコタ、ユタ、ヴァーモント、ヴァージニア、ウエストヴァージニア、ワイオミング。
これらの州では、医療過誤「以外」の文脈では謝罪が証拠認容されるおそれを筆者は懸念する。すなわち、医療過誤「以外」の多くの事故に於いて、州民は、謝罪が奨励されていないと読めてしまう。このように、医療過誤だけという狭い文脈に於いてのみ謝罪を奨励するのでは不十分なのではないか?と疑問が大きく残るのである。 / 尤も、医療過誤の分野に限りこのような法が制定される理由・背景としては、この分野の訴訟が他に比べて突出して深刻である事実も推察される。
Robbennolt, at 356 n.24.
謝罪の言葉は不利に扱わないけれども、落ち度を認める言葉は証拠排除しないアイムソーリー法を制定する州の例
カリフォルニア、デラウエア、コロンビア特別区、フロリダ、ハワイ、アイダホ、イリノイ、インディアナ、ルイジアナ、メイン、メリーランド、マサチューセッツ、ミズーリ、ネブラスカ、ニューハンプシャー、サウスダコタ、テネシー、テキサス、ヴァージニア、ヴァーモント、ワシントン州。
このような規定は、例えば「I'm sorry that I hurt you.」という謝罪文言は不利な証拠として認容されてしまうけれども、「I'm sorry that you are hurt.」という謝罪文言ならば証拠から排除され得 ることに成る。See Pearlmutter, at 703.
カリフォルニア州は、例えば、以下のように規定している。
"A statement of fault, however, which is part of, or in addition to, any of the above [apologies] shall not be inadmissible pursuant to this section."
CAL. EVID. CODE §1160(a) (2000 ) (emphasis added).
メイン州は、例えば、以下のように規定している。
"Nothing in this section prohibits the admissibility of a statement of fault."
MAIN 24 M.R.S.A.§2907.
Robbennolt, at 357 n.25; Saitta & Hodge at 103 & n.84.
筆者の私見では、このような法の下では論理的に、「非を認めない謝罪」が奨励されることに成る。しかし、「非を認めない」ままで「謝罪」と言えるのか?そもそも「謝罪」の定義には、「非を認めること」が不可欠な要素ではないのか?という疑問が大きく残る。謝罪に於ける罪を認めることの意義については、後掲「謝罪の定義」「謝罪の意味と真正な謝罪」「非を認めることで不均衡を修復する謝罪」等を参照。See also Robbennolt, at 352 n.7 (次のようなに指摘している:「Statements that express sympathy and do not accept responsibility are thought to be incomplete by most definitions.」); Pearlmutter at 701; Saitta & Hodge at 94 (単に同情を示すよりも責任を認めた方が効果的と指摘).
尤も逆に、そもそも訴訟を怖れるあまりに、特に医療過誤に於いて、容体悪化の原因や状況説明をしない医療機関側の態度が患者側の怒りを買って紛争悪化・訴訟に発展する背景や、そもそも「I'm sorry」と言ってもその言葉が必ずしも責任の自認には繋がらないはずである点や、その一言があれば紛争悪化を回避できる事実も、考慮する必要があろう。 See Saitta & Hodge, 105.
謝罪を証拠から排除して加害者を保護すれば、誠実さを欠く謝罪を助長し却って意味がないという指摘については、see Pearlmutter, at 719 (Lee Taft, Within a Moral Dialectic: A Reply to Professor Robbennolt, 103 MICH. L. R. 1010, 1012 (2005)を出典表示して指摘).
落ち度を認める文言を証拠排除しない州もあること故に、謝罪の文言の内の何処からが証拠排除され何処からが排除されないのかが曖昧に成り、弁護士も医師もアイムソーリー法制定以降も引き続き一切の謝罪の言葉を控えるような行動が奨励されてしまっていて、延いては、事故の詳細情報を知りたいと望む被害者感情を害するとの指摘については、see Pearlmutter, at 703-04.
落ち度を認める言葉も証拠から排除するアイムソーリー法を制定する州
アリゾナ、コロラド、コネチカット、ジョージア、サウスカロライナ、ヴァーモント、ワシントン、ワイオミング州。
Pearlmutter, at 700 n.75.
アリゾナ州は、例えば、以下のように規定している。
"Any statement, affirmation, gesture or conduct expressing apology, responsibility, liability, sympathy, commiseration (憐れみ・同情), condolence (お悔やみ・哀悼), compassion or a general sense of benevolence (博愛・慈愛) that was made by a health care provider ... to the patient, a relative of the patient, the patient's survivors or a health care decision maker for the patient and that relates to the discomfort, pain, suffering, injury or death of the patient as the result of the unanticipated outcome of medical care is inadmissible as evidence of an admission of liability or as evidence of an admission against interest."
Ariz. Rev. Stat. Ann. § 12-2605 (2005)(emphasis & trans. added).
Robbennolt, at 357 n.26; Saitta & Hodge at 110.
筆者の私見では、このような法の下では、非を認めた謝罪が奨励されているけれども、非を認めても証拠排除される安心感から、うわべだけの「偽りの謝罪」が生じるおそれも懸念される。謝罪がうわべだけで行われる論点については、後掲「謝罪は偽ることが容易」及び「金銭賠償」等を参照。
落ち度を認める言葉を証拠認容するか否かを文言上区別していない州
コロンビア特別区、アイダホ、イリノイ、アイオア、マサチューセッツ、ノースカロライナ、ノースダコタ、オハイオ、オクラホマ、オレゴン、サウスダコタ、ユタ、ヴァーモント、ウエストヴァージニア、ワイオミング州。
Robbennolt, at 357 n.27.
事故後に謝罪を表明しても、その謝罪が過失の存在を必ずしも証明するとは限らない。それにも拘わらず、謝罪の表明を過失の証拠として認容され、その証拠に基づいて陪審員が過失・責任を認定してしまうという問題が、謝罪表明を妨げる原因として指摘されている。
Pearlmutter, at 707-12.
謝罪には通常、落ち度を認める要素が含まれる為に、弁護士は依頼人が謝罪しないようにアドヴァイスする。
E.g.,Rachlinski & Guthrie at 1192: ________; ______; ________.
アイムソーリー法が無ければ謝罪が原則として証拠採用されてしまう根拠法(連邦証拠法)
伝聞証拠排除則("hearsay" rules)の例外を規定した、 連邦証拠法の以下の条文が、謝罪を阻む根拠条文と指摘されている。
連邦証拠規則第803(2)条: "The following are not excluded by the rule against hearsay, regardless of whether the declarant is available as a witness: (1) . . . ; (2) Excited Utterance. A statement relating to a startling event or condition, made while the declarant was under the stress of excitement that it caused; . . . ."
連邦証拠規則第 条: "______"
See Saitta & Hodge, at 100.
謝罪の定義は多岐にわたるかもしれないが、以下、例示してみる。
謝罪とは、(1)自らの落ち度を認めて、 (2)加害的行為への後悔を表明し、且つ (3)相手方の被った害に対す同情の意を表明すること。
Ebert at 360.
謝罪とは、加害を加えられた人に対する尊敬と同情を示す方法であり、重要な儀式である。
Saitta & Hodge at 94 (Beverly Engel, The Power of Apology, PSHYCHOLOGY TODAY, Jul. 1, 2002を出典表示).
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効果的な謝罪に必要な要素として、以下の四要素を挙げる指摘も参考に成ろう。
(1)悪い行為を具体的に特定した上で、 (2)自責の念を表明し、(3)再発させないと約束し、且つ(4)損害を補償する申し出をすること。
何れかの要素を欠く謝罪は、誠実ではないと受け取られ得る。(例えば(1)悪い行為を具体的に特定させずに誤魔化して曖昧に謝ること; 言い訳を付け加えて(2)自責の念を明確に示さないこと。)
小手先の謝罪はニュアンスから不誠実さが感じられ得る。効果的な謝罪は、それにより何かを得ようと考えた戦略的な謝罪ではなく、真の罪悪感や真の問題回復の願いといった感情に基づいたものである。
O'Connor at 1965, 1968-70.
以下の指摘・分析は、2000年の雪印乳業の食中毒事件に於いて、社長が「私は寝てないんだ」と傲慢な発言をした為にマスコミの大不興を買い、視聴者に悪印象を大々的に報道されるキャンペーンをはられて、遂には不買運動に至って企業破綻・再編に追い込まれたPR上の大失態を想起させる。
(1)加害者が自身を被害者よりも倫理的に低い立場に置き、(2)赦される為には何でもする意思を表し、且つ、(3)赦す権能を全て被害者に委ねなければ、謝罪は効果的に機能しない。
会社の失態について最高経営責任者が、「申し訳ない。しかしその気持ちを伝えるのに疲れ果てた」(I'm sorry but I'm tired of trying to convince you of that.)と言ってはダメなのである。そのような発言は、アメリカの大衆には、自社(英国企業)を植民地アメリカよりも(1)高く位置づけるような、傲慢(arrogant)な態度にさえ感じられたのである。
O'Connor at 1985-86 (メキシコ湾海底石油流出事故対応に於けるBP社CEOのPR上の失態を分析). なお説得力を欠く謝罪の言葉の例として、「I'm sorry you feel that way.」を指摘する向きもある。 Rachlinski & Chris Guthrie at 1197.
雪印乳業とは逆に、ジャパネットたかた顧客情報流出事故や、松下電産石油ファンヒータ事故リコール対応などが、ポジティヴ・パブリシティーとして好評価されている理由は、上の指摘・分析に沿った対応をしたこと――すなわち(1)自社を低い立場に置き、(2)何でもする意思を表し、且つ、(3)赦す権能を全て消費者/マスコミに委ねたこと――にあるように思われる。
謝罪を「法と経済学」的に、「取引交換」(bargained-for exchange)であると観るモデルに於いては、加害者が責任を認めて(the offender taking responsibility)、それとの交換取引として、被害者が赦しを与える(the victim offering forgiveness)と捉える。即ち謝罪は交換物(the object of the exchange)であると捉えるのである。しかし謝罪は、両当事者間の矯正的な儀式として、社会的倫理的なモデルを活用した適切な文脈で把握しなければならない。 Pavlick, Apology and Mediation, at 842 n.71.
謝罪は責任を認める手段の一つであり、修復的過程の重要な構成要素である。被害者へ敬意を表す(showing of respect)ことにより、被害を生じさせる行為の侮辱(indignity)へ対処するものである。不法行為法は謝罪を奨励すべきで、少なくとも萎縮させるべきではない。 / 医師が過誤の責任を直ぐに認めれば、それだけ訴訟を提起されない。責任の認容が修復的利益(restorative benefits)を被害者に与えるからである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 68.
日本では、謝罪のような社会的修復的機能の利用可能性が多くの場合、公式な法的制裁を不要にしている。Shuman, The Psychology of Compensation, at 70 (をHiroshi Wagatsuma & Arthur Rosett, The Implications of Apology: Law and Culture in Japan and the United States, 20 Law & Soc’y Rev. 461, 464 (1986)出典根拠としながら).
協調的人間関係の修復(restoration of a harmonious human relationship)は、人が自己奉仕的傾向や自己温存的傾向(self-serving and self-preserving tendencies)を捨て去ってこそ達成できる。従って力の不均衡(power imbalance)を矯正する為には、まずカガイシャが自らの行為を痛みを伴いつつ認め(acknowledge/admit)なければならない。カガイシャはwrongを認めることによって自身の行為の責任を取り始める。カガイシャの責任は増して行き、恥も増して行き、ヒガイシャが経験したのと同じ自尊心の喪失も経験することになる。これに反比例してヒガイシャの責任負担は減少し、自尊心とアイデンテティーが修復し始める。力の均衡が徐々に転嫁し始めるのである。即ち謝罪は力の均衡の一種なのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 843.
責任を認めた次に、カガイシャは、後悔・良心の呵責を表明(express sorrow or regret)しなければならない。後悔・良心の呵責の要素はヒガイシャへの感情移入として表され、これによりカガイシャに壊れた関係への不安を感じさせ、ヒガイシャを傷つけたことの罪悪感と、倫理的規範を犯した恥と、自尊心の喪失とを感じさせる。ヒガイシャに害を被らせたことへの後悔・良心の呵責は、ヒガイシャの苦痛を消し去り終わりにすることを助ける。Pavlick, Apology and Mediation, at 843-44.
ヒガイシャ側も赦し(forgiveness)を通じて、カガイシャに対する矯正的怒りの感情を解除(release ... corrective anger)できる。赦しは、倫理的な危害が加わわらさえられたという憤慨感も失くすことができる。即ち赦しは、過去の出来事の呪縛からヒガイシャを開放し、人生を前に進めさせる。更に赦しは、カガイシャも罪悪感と恥から解き放つ。怒りと罪悪感と恥とが最早、ヒガイシャとカガイシャを隔てなくなり、調和の促すのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 844.
謝罪とは、加害者が @加害の責任を認め(acknowledge responsibility for an offense)、かつ A被害者に対し後悔または良心の呵責を表す(express regret or remorse)ことである。 Taft, On Bended Knee, at 604; Pavlick, Apology and Mediation, at 832 n. 8.
語源はギリシャ語の「apologia」であり、人の行為を防禦する声明または主張という意味であった。そもそも行為の言い訳(an excuse)または正当化(a justification)として示されるものだったのであり、そこには罪を認めたり良心の呵責の表明が含まれていなかった。 (an excuseとは望ましくない出来事に対する責任を拒絶するように求めることであり、a justificationとは責任を受容するもののそれが積極的な見方となるように変えるよう試みることである。) しかし結局「authentic apology(真正な謝罪)」は、後悔の表明を伴う悪の自認(admission...of a wrong, accompanied by an expression of regret)であると定義されるに至ったのである。 / 「authentic apology」の基本的要件は、@他人に課した危害に対して後悔(being sorry)し、かつ、Aそのように言うこと(saying so)、である。つまり自認した不法行為に対して後悔を表わすこと(expressing sorry ... for admitted wrongdoing)なのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 834-35 & n.19.
謝罪には、謝罪者にとって苦痛が生じる(causes pain)という懲罰的要素(punitive element)が伴うとMillerは指摘している。謝罪は偽り易いから誠実さを担保する為の対策が必要であり、たとえば60頭の羊を支払うといった苦痛がこの対策となるのである。更に謝罪には、Thomas Aquinasが「加害への補償」(“compensation for injury inflicted”)と表現した、充足の要素(an element of satisfaction)が伴うとMillerは指摘している。充足とは、即ち、謝罪者に苦痛を与えるという費用なのである(The pain it costs the apologizer to give it.)。 Taft, On Bended Knee, at 611.
「謝罪」(apology)に於いては、正当なルールまたは倫理的規範が破られたことを認めること([a]cknowledging the legitimacy of the rule or moral norm that was broken)が、文化の違いを超えて[共通する]重要な構成要素である。謝罪を通じて謝罪者は、倫理的規範の違反を認めて被謝罪者と共通の価値観を再肯定(re-affirm)し、倫理的な社会での構成員たることを再確認(re-certification)するよう求める。コミュニティ・スタンダードの違反を誠実に認めた場合に於いてのみ、コミュニティは違反者が再度仲間として戻ることを許容するのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 836. 謝罪が社会復帰の機能を果たすという指摘については、 see also Rachlinski & Guthrie at 1192.
謝罪は、関係を元に戻す為の手段として用いられて来た。どの文化に於いても、紛争を修復する手段としての慣行を有しているのである。 / そもそも文化とは、通常は例示による教育というロール・モデルを通じた学習を伴う集団志向の社会的現象である。子供達は大人の環境への参加の副産物として多くを学ぶ。 Pavlick, Apology and Mediation, at 837.
階層的・階級的文化(hierarchical culture)に於いては、社会的関係の維持が余りにも重要過ぎる為に、訴訟等によってこれを危うくすることができない程である。 / これと正反対に、アメリカのような個人志向の社会(individual-oriented culture)に於いては、個人の自律と選択(individual autonomy and choice)こそが価値を置かれる。 (アメリカは調査した国々の中で最も個人主義的であるとされ、 その文化的特性は訴訟への偏向を支持するものである。) 個人の自律の強調は、偏狭な個人的利益の勢力的な主張(the vigorous assertion of narrowly defined personal interests)へと導かれ、他人の権利と対極的な衝突(polar conflict with the rights of others)を生じさせるように思われる。そのような文化では「謝罪」に対して余り重きを置かず、[代替的]紛争解決よりは、むしろ訴訟を使う傾向になる。個人志向の文化に於いては「関係性」は社会の枠組みの中で余り重要な役割を有していないから、「謝罪」にも低い価値しか置かれないのである。 ... Pavlick, Apology and Mediation, at 840 & n.59, 841.
謝罪は、既に生じた損害を無しにするものではない。しかし、過去を変えるものではないけれども、謝罪はその更正的・改心的な力を通じて権利侵害を変容させ、権利侵害が社会関係に対する恒久的障害となることを阻止する。過去は消えないけれども、現在は変わるのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 841.
謝罪は安価に責任を逃れる手段として使われ得るから、「cheap talk」「costless utterance」「empty, shallow, hollow, cheap, insincere, fraudulent, or 'just talk'」等と呼ばれている。謝罪が本当に真摯で信用に足ることを示す為には、謝罪に費用が伴わなければならない。 See Rachlinski & Guthrie at 1196 & n.38.
被害者にとっては、誠実な謝罪と、不誠実な謝罪との区別をつける必要がある。 O'Connor at 1967. 加害者が心から自責の念に駆られている姿を、被害者は観たいのである。Rachlinski & Guthrie at 1197.
William Ian Millerによれば、良心の呵責(remorse)は、容易に偽ることができる感情である。簡単に偽れる謝罪(apology’s easy fake-ability)を許さない為には、謝罪する者に痛みを与えることによって謝罪を確実なものにすべきである。 Taft, On Bended Knee, at 610.
Millerも、私(Taft)の主張と同様に、謝罪する者にその真正さ(authenticity)を証明するように求めているのである。謝罪者は謝罪の結果をも受容すべきである。 Taft, On Bended Knee, at 611.
[言葉だけではなく行為も伴う]真正な遺憾を維持することにより、良心の呵責(remorse)を言葉で述べるだけで惹き起こした責任から距離を置こうとする倫理の堕落(the moral backslide)を避けることができるのである。 Taft, On Bended Knee, at 615.
謝罪するときには、...裸で向かい合う(we stand naked)のである。言い訳なしに([n]o excuse)…。Pavlick, Apology and Mediation, at 845.
被害者は、金銭的賠償よりも、寧ろ謝罪と説明を欲しがると指摘されている。See Pearlmutter, at 716 (Norman G. Tabler, Should Physicians Apologize for Medical Errors?, HEALTH L., Jan. 2007, at 25を出典表示しながら).
しかし、被害者は謝罪を受け入れる場合に於いてさえも、少なくとも部分的な賠償を要求するものである。 See Taft, On Bended Knee, at 609.
謝罪が被害者を癒すからといって、謝罪を奨励するために謝罪した加害者の金銭賠償義務を免除すべきではない。もし仮にあなたが私を井戸に突き落とした場合、良心の呵責の表明が私の苦痛を本当に和らげるであろうか(an expression of remorse really do to alleviate my suffering?)。 いや、本当に苦痛を和らげてくれるのは、梯子と光をくれることである。 / reparation(賠償金、回復、修繕)が伴わない「御免なさい」(“I’m sorry”)の言葉だけでは駄目である。 See Taft, On Bended Knee, at 606-07. /
屈辱を与えることこそが充足の目的であり、訴訟を追行する唯一の理由であるという不法行為賠償責任請求者がいるかもしれない。悪事・非行(wrong)に復讐したいという主張は、人の心理と堅く結び付いているのかもしれない([t]he urge to avenge wrong … may indeed be hardwired into the human psyche…)。しかしそれでも私(Taft)の20年の不法行為専門家としての経験に於いて、敵を跪かせたいことだけを望む依頼人に遭ったことはなく、皆、同時に60頭の羊をも求めたのである。 Taft, On Bended Knee, at 613.
勿論損失を金銭で置き換えることはできない(incommensurable)。しかし、金銭は、我々の文化に於いて非常に重要であるから、金銭賠償を付与することによって被害者の権利と損失を重要視している(take your rights and loss seriously)ことを表す。重要視していることを表す為にこそ金銭を支払うのであって、我々の文化に於いてはそれがとても重要だからこそ金銭を償いに用いるのである。 Pryor, Rehabilitating Tort Compensation, at 688-89.
重要な何かを一方当事者が諦めて、これを他方当事者が受領することにより、違反者の過誤を公に認知することを象徴(symbolize public recognition of the transgressor’s fault)している。 Pryor, Rehabilitating Tort Compensation, at 688.
金銭は重要性の象徴として意義があるばかりか、事故後の人生の修復と再建を助ける為にも意義がある。 Pryor, Rehabilitating Tort Compensation, at 689.
Daniel Shumanは、損失の金銭的価値の単なる補償を超えて、被害者にとっては被害のvindication(復讐、報復、懲罰)を求める必要性(to seek vindication for their injury)にこそ不法行為制度の主な根源が存在していると指摘している。 Taft, On Bended Knee, at 610. (なお、謝罪が被害者にとってのvindicationに成るという指摘については、see also Rachlinski & Guthrie at 1192.
初期のコモンロー不法行為制度は、「血の宿恨」の主要で有効な代替物(a substitute)だった。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 40.
医療過誤訴訟を提起した理由のアンケートに対して、復讐と再発防止を求めると19%が回答した例がある。 Saitta & Hodge at 98.
嘗(かつ)て抑圧されていた南アフリカの現判事は、謝罪による免責の論点に関するパネル・ディスカッションに於いて、敵を跪かせたい(have his enemy “on bended knee”)(土下座?!)と述べていた。敵をやりこめて屈辱をその目にすること(witnessing his enemy’s humiliation)を望み、それが苦痛を和らげる(alleviate his suffering)と指摘している。 Taft, On Bended Knee, at 603.
敵をやり込めて屈辱を目にしたい、跪かせせたいという願望、即ち恥を与える制裁(shaming sanctions)は、応報的渇望を充足させる(“satisfy … ’retributive” thirst”)。人は、屈辱の儀式を通じて応報の渇望を充足しようという願望に、特に屈し易いのかもしれない(Men may be particularly susceptible to the desire to satisfy this thirst for retribution through rituals of humiliation)。何故なら人は、敗北宣言としての謝罪の象徴的な力(the symbolic power of apology, especially as … an advertisement of defeat)に、同調するからである。 Taft, On Bended Knee, at 611-12.
現代不法行為法は、復讐志向を緩和しようと試みている。[しかし]自然災害等により誰でもが曝され得る苦難と、不法行為の結果としての苦痛とは、異なるものである。後者は損失と他人の不法な行為との関係(relationship of their loss to another’s wrongful act)が存在する為に、不法行為賠償責任請求者の悲しみが大きく複雑な感情(powerful and complex emotions)となるのである。 Taft, On Bended Knee, at 612.
不法行為法の存在理由は、その修復的機能にも求められるべきである。「抑止」と「賠償」という不法行為法の主な論題は、被害の「予防」と「修復」を扱うから、「therapeutic jurisprudence」(治療学的法学)の適用が豊富な分野である。治療学的法学とは、[ある]法律が治療的結果を生むか反治療的結果になるかという、therapeutic agent(治療力、治癒的作用物)としての法律を精査する分野である。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 41 & n.8.
カガイシャへの制裁は、ヒガイシャにとっての復讐の喜び(a pleasure of vengeance)を自然と生む。原告の利得が被告から金銭を奪うことから生じる(that the benefit derived by the plaintiff flows from the toll taken of the defendant)点にこそ、不法行為法の修復的な効果(restorative impact)があるのかもしれない。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 43.
David G. Owenも不法行為法制度自体が治癒的であると指摘する。不法行為法上の損害賠償は“私的な復習”(a private revenge)であり、被害者の「感情的均衡」(“emotional equilibrium”)を修復させ、社会的価値の補強等の重要な諸価値を推進すると指摘している。 / 不法行為法は、被害者の重要な感情的必要性に応じている(respond to significant emotional needs of victims)とOwenは指摘している。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 44.
行動科学(human behavior)の論者は、不法行為者(a wrongdoer)を制裁することが「被害者の怒りの感情を和らげがちである、制裁を課すことで事件が終わったと看做しがちである」と指摘している。第三者事故補償制度から補償金を得たにもかかわらずπが訴訟を追行する理由は、司法制度が提供する威厳(後掲「手続的正義」云々の項参照)と、尊敬と、権能付与(後掲「強制的権能」云々の次項参照)の必要性と、公正さの思想ゆえである(because of a “need for dignity, respect, empowerment, and an ideology of fairness that a system of justice provides”)、と指摘する論者もいる。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 50-51.
不法行為を定義付ける要素である過誤(fault)も、人の外部に存在する正義に帰するものではなく、むしろ人間の心理的反応にこそ帰するものかもしれない。不法を犯された人はresentment(怨恨、立腹)を感じ、被害者に同情する社会は被害者と同化する。被害者と社会のresentmentは民事罰(the civil sanction)であるreparation(修復、回復、賠償)によってappeased(なだまる、静まる、気が済む)のである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 51.
以上の心理的な賠償目的は、πに被害を惹き起こした責任(responsibility)のない第三者が事故補償的に金銭を支払っても満たされない。対する不法行為制度は、たとえ損失分散の原理に満ちているとはいえ、責任の決定(a determination of responsibility)を伴う[点に於いて被害者・社会の心理的要請に応えている]のである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 51.
加害者と被害者との不均衡な関係(次々段落参照)を形成し直す為の司法制度の矯正的な権能(the coercive power of the judicial system to reshape the power imbalance in their relationship)をπは[提訴の重要性として]挙げている。(empowerment theory) Shuman, The Psychology of Compensation, at 56.
不法を行ったと思われる者との間で紛争が生じ、その者が不法行為を認めない場合には、その者を公開の法廷に召喚する権利があり、かつその公開の場でその者が悪者の烙印を押され得る(may be branded as in the wrong)ことを知ることは、大きな充足(a great satisfaction)であり得ると、Atiyahは指摘する。(empowerment theory) Shuman, The Psychology of Compensation, at 56 & n.87 (P.S. Atiyah, Accidents, Compensation and the Law 553 (3d ed. 1980)を引用しながら指摘).
社会心理学に於ける「衡平理論」(equity theory)は、そもそも衡平な関係を、ある人の支出と収入の率が他者の支出/収入率と衡平な場合であると定義する。人がある活動に関与して、不衡平な関係や不衡平な危害の分配を惹き起こす場合に被害(harm)が生じる。原因に対するある人の責任意識にとって不釣合いな損失を経験した場合その人は「嫌悪の感情的状態」を経験している(When someone experiences a loss that is disproportionate to their perception of their responsibility for its causation, they experience an “aversive emotional state.”)。 被害者との関係に於いて不法行為者が衡平を修復(to restore equity)できる手段は、被害者へ賠償を支払うこと(making compensation to him)である。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 57.
equity theoryでは、不法行為の被害が加害者と被害者の関係に不均衡(imbalance)を惹き起こしたと捉える。equity theoryは両者の相互関係から[事象を]捉えるのである。従って第三者が[事故補償制度によって]事故補償を支払っても不均衡は解消しない。均衡を修復する責任がある不法行為者が個人的に取り組まない限り、被害の結果は継続するのである。社会心理学者の[実証]実験は、第三者が補償を支払うよりも加害者が支払う方が被害者は最も充足を得ることを明らかにしている。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 57.
ヒガイシャは、自尊心(self-esteem)や自己観念(self-concept)を失い、怒り、攻撃、不信、罪悪感、および苦痛を感じている。即ちヒガイシャは弱者となり傷つき易いのである。そこに於いて謝罪は、カガイシャとヒガイシャの立場を逆転させる(tables are turned)。カガイシャの謝罪を受容して赦しを与えるか否かはヒガイシャのみが有する能力となるので、カガイシャはヒガイシャの為すがまま(at the mercy of)になるからである。このようにして謝罪は倫理的な均衡(moral balance)を修復(restore)させるのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 843.
参加(participation)、威厳(dignity)、および信頼(trust)という諸要請に応じている。参加に関しては、不法行為訴訟制度で用いられるadversary systemが自己の主張・立証をする機会(the opportunity to state one’s case)と同時に、結果に影響を与える機会(the opportunity to influence the outcome)とをπに付与することにより、参加の機会を極大化する。そのような機会を付与しない第三者による事故補償制度よりも優れている。 / 「威厳」に関してもこれを高めるように意図されている。紛争に関わる個人の重要性と問題の重大性を裁判所が受容しているとπが感受すること(feel that the court accords importance to the persons and subject matter involved in the dispute)により、πの威厳が高められるからである。 / 「信頼」に関しても、充足は信頼と結びついている。人々は、信頼する者が偏向せずに十分な時間を掛けた審理の上での決定をより受容する傾向がある。特定利益に関係しない陪審を用いた不法行為制度と、その審理過程は、かかる信頼を促進する。 / 複数の「empowerment theory」(権能理論)が示唆するように、人々は金銭よりも賠償の決定を求めている(people seek more from compensation decisions than money itself)。不法行為訴訟は被害者πを修復させる上で、結果に於いてπの権利を実現すること(vindicate)から重要であるばかりか、その過程自身が治療的であることからも重要かもしれない。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 63-64.
即ち不法行為制度は、修復の最善策として、社会が紛争に関心を寄せているというメッセージを伝える威厳のある手続に於いて、信頼された判決決定者が責任の判決を下し、πと凾フ権能の不均衡を再形成することを助ける。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 74.
人々は真摯に扱われることを知りたいのである(People want to know that they are taken seriously.)。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 75. --- [上段の手続的正義は真摯に扱われる望みを適えている。]
謝罪は、思いやっている(caring)というメッセージを伝える。
Miller曰く、「血の宿恨の文化」(blood-feud cultures)である以下の13世紀の儀式・慣例(rituals)は、良心の呵責の虚偽という問題を如何に解決していたのかを表している。即ち、加害者が誤って被害者を叩いてしまったとき、まず加害者は「御免なさい、わざとではなかったのです」(“I am sorry, I did not mean to hit you.”)と被害者に伝える。更に重要なことには、「私を責めないようにする為と、わざとではなかったことを理解してもらう為に、60頭の羊を差し上げましょう。」(“I will pay you sixty sheep so that you will not blame me and will understand that I did not mean it”)と付け加えたのである。 / 故意の加害の場合は、死闘の後に、和解と平穏の為の儀式が次のように行われたという。即ち、加害者は頭を被害者の膝に差し出して、その頭を返してくれるように懇願した(X having lay his head on Y’s knee and plead with Y to give it back)という。このような文化に於いては、謝罪と、屈辱と、補償と、赦し(apology, humiliation, compensation, and forgiveness)とが、混在している。しかしこのようなことは、謝罪が容易に偽れることを考慮すれば、必要なのである。Taft, On Bended Knee, at 610-11.
[カガイシャとヒガイシャの間の]人間関係の再形成(to reshape personal relationship)の為にヒガイシャが司法制度を用いる(i.e., 不法行為訴訟制度が「権能付与/衡平」へのヒガイシャの要請に資する)という指摘は、Laura NaderによりメキシコのZapotec Courtの研究に於いて観察されている。同裁判所では「目には目を」が目的ではなく、人間関係を均衡状態へ修復することこそが目的とされる。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 56 & n.87.
古代ギリシャ人は、「復讐=正義」という正義観を持っていました。しかしそのような正義観は悪循環に陥るという問題を、アイスキュロス作の『オレスティア』三部作は示していると分析されています。See アイスキュロス作、 久保正彰訳 『アガメムノーン』144-45頁(1998年、岩波文庫).
ところで「復讐=正義」という古代ギリシャ人の正義観は、 『アガメムノーン』に出て来る以下の台詞に象徴されているのではないでしょうか?
「為し手は、為しただけのことを、報いとしてその身に受ける」
久保訳, supra, at 146.
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この点に関しては、「法と文学」研究の旗手ホワイト教授も以下のような指摘をしています。
古代ギリシャ悲劇詩人アイスキュロス(Aeschylus)作『オレスティア』(THE ORESTEIA)は、応報的正義(retaliatory justice)の物語であり、世代間に亘る「復讐の連鎖」(the chain of vengence)と、そのように途絶えることなく継続する復讐に対して社会が終止符を打つことのできる公的制度としての裁判と制裁の形成を讃えている。
WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, supra, at 246-47.
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ギリシャの哲人アリストテレスも『ニコマコス倫理学』に於いて、「正」とはお互いに対して応報を得たことであり応報的であるというピュタゴラス学徒の主張として以下のような文言を紹介していまます。
「なしたところをなされてこそ/まがりのない/正義の審きというもの」
高田訳, supra, at 185.
更にアリストテレスは続けて彼自身の主張として以下のように指摘している。
【分配的正義と矯正的正義について】
「…正義の、ないしはこれに則した『正しい』ということの一種は、名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分かたれるところのものの配分におけるそれであり(…)、他の一種は、もろもろの人間交渉において矯正の役目を果たすところのそれである。…。」
高田訳, supra, at 177 (emphasis original).
【矯正的正義の内容について】
「…裁判官が均等化しようと勤めるところのものは、…「不均等」…にほかならない。詳しくいうならば、一方が殴打され他方が殴打するという場合とか、ないしはまた一方が殺し他方が殺されるという場合にしても、するとされるとで不均衡に区分されることになる。だからして、裁判官は、一方から利得を奪うことによって罰という損失でもってその均等化を試みるのである。…。[矯]正的な『正』とは、利得と損失との『中』でなくてはならない。 / …。裁判官は均等を回復するのであるが、彼はいわばひとつの線分が不均等な両部分の分かたれている場合に、大きな部分が全体の半分を超えているそれだけのものをそこから取り除いて、小さいほうの部分へ付け加えてやるのである。そして全体が折半されたものになるにいたったとき、『自己のものを得た』といわれる。均等なものを得るのだからである。…。/…。自分に属する以上を得ることが利得、最初自分に属していたよりも少なくしか得ないのが損失と呼ばれる。…。/だからして『正』とは、ここでは、一方の意に反して生じた事態におけるある意味における利得ならびに損失の『中』であり、事前と事後との間に均等を保持するということにほかならない。 」
「実際、国の維持されてゆくのは比例的な仕方でお互いの間に『応報』の行われることによってなのである。けだし、ひとびとはあしきことがらに対しては、やはりあしき仕方で応じようとする。然らざればそれは奴隷的な態度だと考えられている。またよきことがらに対しては、彼らはやはりよき仕方で応じようとする。さもなくば相互給付ということは行われず、ひとびとは、しかるに、相互給付という楔[くさび]によって結ばれているのである。」
高田訳, supra, at 182-83, 184-85, 186 (emphasis original).
以上の引用文の内、最後の段落の指摘は、私見では「もの作り」という「善」たる行為に対して、むやみやたらと無過失責任を課すことの反正義性を説明することにもなると思われます。何故ならば、「もの作り」という「よきことがら」に対して本来ならば「よき仕方で応じようとする」べきなのに、逆に、無過失責任の賦課という「あしき仕方で応じようとす」れば、社会に必要な「もの作り」という「相互給付ということは行われず、ひとびとは、しかるに、相互給付という楔によって結ばれているのである」からである。「もの作り」に限らず、小児医療や婦人科医療等、不法行為訴訟の拡大の対象になっている「善」たる諸行為の提供者にとっても、同じことが言えると思われます。
医療過誤訴提起する金銭的賠償以外の理由の一つには、同様な事故の再発防止を期待する気持もある。 Saitta & Hodge at 98.
[賠償義務を伴う]真正(authentic)なrepentance(遺憾、後悔)の重要な要素は、悪事・非行(wrong)を犯した者が過誤から学んで他人へ同様な危害を与えないように行動を変えるという変革(restructuring)の意思を伝達することに於いて重要である。加害者の自己変革は、被害者にとって無意味だった悲劇が契機となって他人が同様な害を被らずに済むことになったという意味を与えられるように変化するからこそ、被害者にとって非常に重要なのである。 Taft, On Bended Knee, at 615. / 真正な儀式・慣例(authentic rituals)や遺憾の行為(acts of repentance)は被害を和らげるからこそ、それらを奨励する手立てを不法行為制度の中で探るべきである。 Taft, On Bended Knee, at 615.
医療過誤訴提起する金銭的賠償以外の理由には、適切な説明を求め、謝罪を求め、又はその双方を求める気持もある。 Saitta & Hodge at 98.
死亡の原因に対する責任に関して純粋な疑念が残る場合、訴訟は死者に対する義務を果たすこと(fulfill their sense of duty)になるから、残った者達の悲嘆[の解消]過程を促進する。逆に死亡原因の責任について純粋な疑念がない場合には、訴訟は悲嘆[の解消]過程を阻害する。死亡の現実に向き合わず、不釣合いに死亡原因に執着する(inappropriately focusing on the cause of the death rather than confronting its existence)からである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 62.
賠償を得る為には過誤の立証が原則として必要。故に金銭的利益から、被害者は損失の責任を他人(凵jの所為(せい)にするように奨励されている。従って、賠償を得られる可能性のある場合、被害者は自身の請求を正当化できるように過誤を[他人(凵jに]帰すという主張をきいても驚くに当たらない。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 60.
そして、被害の原因を自身以外に帰属させるとき、人は訴訟をより提起しがちである。Randの研究によれば、被害の原因として主に他人を責める人々は、自己を責める者より12倍も提訴を検討しがちである。過誤に基礎を置く不法行為制度は、我々が命に対して自己責任を負うよりも、むしろ我々の不幸を他人の所為(せい)にすることを奨励する(blaming others for our misfortunes rather than taking personal responsibility for our lives)。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 60.
不法行為上の制裁(tort law sanctions)が抑止効果を生んでいることを示す[有効な実証は]存在しない点が、抑止論の難点である。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 43.
謝罪は、法的・経済的救済が為し得ない方法で被害当事者の回復(make injured parties whole)を助ける。 Pavlick, Apology and Mediation, at 832.
刑事責任は、社会に対する悪(a wrong against society)であり、国家に対する違法(offense against the state)である。被告人への訴追手続への被害者の参加(participate in the prosecution of a defendant)は限られたものとなっている。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 71-72.
出典:
【未校閲版】without proof
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