Susumu Hirano; Professor of Law, Graduate School of Policy Studies, Chuo University (Tokyo, JAPAN) ; Professor, Faculty of Law, Meiji University (Tokyo, Japan) ; Member of the New York State Bar (The United States of America) . Copyright (c) 1999-2011 by Susumu Hirano. All rights reserved. 但し作成者の氏名&出典を明示して使用することは許諾します。もっとも何時にても作成者の裁量によって許諾を撤回することができることとします。当ページ/サイトの利用条件はココをクリック。Terms and Conditions for the use of this Page or Site. 当サイトはアメリカ等の法律学における学際的分野「Law & Literature」(法と文学)の研究および教育用サイトです。関連ページは「法と文化」のページです。
フランツ・カフカ作『審判』を中心に (「カフカと法と文学の研究」のページ参照)
ウイリアム・シェークスピア作『ベニスの商人』を中心に (「シェークスピアと法と文学の研究」のページ参照)
ソフォクレス作『アンティゴネー』(古代ギリシャ悲劇)
ソフォクレス作『オイディプス王』(古代ギリシャ悲劇)
アイスキュロス(Aeschylus)作『オレスティア』(THE ORESTEIA)(古代ギリシャ悲劇)
『アガメムノーン』(AGAMEMNON)
『エウメニデス』(EUMENIDES)
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「アラバマ物語」(To Kill a Mockingbird) / 「12人の怒れる男」(12 Angry Men) / 「或る殺人」(Anatomy of a Murder) / 「虚栄の篝火」(The Bonfire of Vanities) / 以上、「Golden Age Hollywood Lawyer Movies」
「評決」(The Verdict) /
法と文学の分類 --- 「文学の中の法」(law in literature)と、「文学としての法」(law as literature)。
「文学の中の法」 law in literature
「文学としての法」 law as literature
James Boyd Whiteの立場 -- 「法と経済学」への批判
James Boyd White著『LEGAL IMAGINATION』の主張
テキストは、不可避的に著者と読者の解釈の相違を生む
レトリックと法
映像技法の意味
歴史家と法律家の近似性
製作者の立場を押し付ける映画(含、法曹映画)
法と文学への主な批判: ナラティヴ(物語・説話的)に情に訴えることが社会科学的では無いという批判
リチャードA.ポズナー判事による批判
リチャードA.アプシュタイン教授による批判
「リーガル・スリラー」が受ける理由
リチャードA.ポズナー判事による批判
ポップ・カルチャーに於ける法廷トライアル
法廷ものドラマの虚構と現実
以下、代表作品というべき小説と映画を紹介しましょう。まずはハイ・カルチャー系文芸作品を紹介し、次にポピュラー・カルチャー系や映画作品を紹介します。
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以下、古代ギリシャ悲劇から紹介します。
古代ギリシャ悲劇は「復讐文学」(revenge literature)という特徴があると指摘されています。See R. POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, at 60.
SOPHOCLIS SOPHILOU, ANTIGONE / ソポクレース作、呉茂一訳 『アンティゴネー』(1961年、岩波文庫)
あらすじ: 『オイディプス王』系悲劇三部作の最終劇。オイディプス王(Oedipus)の子であるポリュネイケス(Plolynices)とエテオクレス(Eteocles)の兄弟は王位継承を巡り、ポリュネイケスがテーバイ(Thebes)を攻め、エテオクレスがテーバイを護る仕儀となり、結局は両者共に討死した。現王クレオン(Creon)は、エテオクレスの葬儀は丁重に行わせたけれども、ポリュネイケスについてはテーバイに刃向かったという理由によりその亡骸の埋葬を禁じる命令を発布した。しかしポリュネイケスとエテオクレスの妹アンティゴネー(Antigone)(やはりオイディプス王の子)は、ポリュネイケスのみが埋葬されないことを受け入れられず、クレオンの命令を破って埋葬を試みたところ、クレオンは彼女を洞窟へ幽閉して死に至らしめるように命じて幽閉させた。彼女の許婚であったクレオンの末子メノイケウスは、父の処分に反対したけれどもクレオンに聞き入れられなかった。預言者テイレシアスがクレオンに対し、そのような非人道的な仕打ちが因果応報に至ると予言・警告し、クレオンは命令を撤回してアンティゴネーの幽閉先の洞窟に行ったところ、既にアンティゴネーは自害して果てており、その場に居合わせていた末子メノイケウスが後を追って自害。その報を聞いたクレオンの妻も悲嘆に暮れて自害した。クレオンは因果応報の意味を知るに至る。
クレオンが倫理を欠如した怪物であると理解することは誤りである。エテオクレスはテーバイを護った英雄であるのに対しポリュネイケスは反逆者なのだから、両者に同じ扱いの葬儀を許せば更なる反逆を奨励しかねない。
R. POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, at 99.
さて、将来の反逆者を生まないように云々という「ex ante」な視点で分析している点は、さすが「法と経済学」の旗手R.ポズナーらしい指摘ではないでしょうか。それにしても、たとえば両者共に葬儀を許しつつも葬儀の「内容」に格差をつけるという解決もあったのではないでしょうか?
アンティゴネーは王クレオンの命令=法の権威(authority of law)に対して無謀な挑戦をした。彼女は慈悲を乞うのではなく、妥協のない権利を主張してしまった。こうなると王としてはその顔を酷く潰さずに(without a sever loss of face)彼女への罰を回避することが難しくなってしまったのである。
Id (emphasis added).
アンティゴネーは「自然法」(natural law)を説き、王クレオンは「司法積極主義」(legal activism)を表している。アンティゴネーが主張した「自然法」とは、兄妹の束帯(the tie of blood)という生物学的な関係である。彼女はこの血縁関係(blood relationships)の方を、クレオンが重んじたテーベへの忠誠という政治的関係(political relationship)や市民関係(civic relationships)よりも、高く置いたのである。(現代人は実定法以上に生物学的関係を重く置くことはないであろうけれども、実定法はそのような場合のexcuseをある程度認めている。)
Id. at 97, 99-100(emphasis added).
[アンティゴネーの採った行動のような]「より高位な法」(higher law)に従うことによる市民の不服従は、賛美され英雄的である。しかし、場合によってはそれが無政府状態(anarchy)と内乱を生んでしまうので、アンティゴネーを手放しに褒める訳には行かない。
Id. at 100(emphasis added).
アンティゴネーとクレオンが生んだ悲劇の原因は、修正第一条の宗教条項のような媒体を通じた「妥協」(compromise)がなかったことに因るのだ。
Id (emphasis added).
やはり上で当ウエブサイト作者が指摘したような妥協(e.g., 両者共に葬儀を許しつつ格差を設ける)をすれば、衡平法的な「大岡裁き」になったのではないでしょうか?なお衡平法や大岡裁きについては、拙ページ「法と文化」内の「"大岡裁き≠ニ"衡平*@的な正義」の項以下を参照下さい。
SOPHOCLES, OEDIPUS THE KING [OEDIPUS REX]. / ソポクレース作、 藤沢令夫訳 『オイディプス王』(1967年、岩波文庫)
あらすじ: テーバイ(Thebes)が災難・疫病に晒されている理由を神に問うたところ、その原因は先の王ライオス(Laius)を旅行中に殺したと伝えられている賊達が不明で罰も下されていないことによると判明。そこで現王オイディプスは、その下手人探しを始める。そもそもライオス王の件が当時きちんと調査されなかった理由は、その死の直後にスフィンクス(sphinx)が現れて、テーバイの人々に謎を掛けて苦しめるという事件が勃発したからであった。その事件は、テーバイ人ではなかったオイディプス(コリントス[Corinth]の王子)が解決し、その成果故にオイディプスは請われてテーバイ王になり、先王の后イオカステ(Jocasta)を自らの后とし、男子2名と女子2名の子をもうけたのだった。先王の死亡事件をオイディプスが調べ始めると、ライオスは三叉路に通りかかったところで賊に襲われて殺されたことが判明。ところがオイディプス自身、三叉路で嘗て見知らぬ旅人達の一行と喧嘩になって彼らを殺した経験があったので案じ始める。そもそもコリントス王子であったオイディプスは、嘗てコリントスの父王を殺す運命(ダイモーン)であるとの神託を受け、そのダイモーンを避ける為に流浪中だったのだ。調査を進めると、オイディプスは実はコリントス王夫妻から生まれた子ではなく、キタイロン山脈に捨てられようとしていた赤子であったことが判明。その赤子は、実はテーバイ王ライオスと后イオカステの子であったが、神託により、将来は父親を殺す運命(ダイモーン)であると知らされたライオスが羊飼いの部下に命じてキタイロン山脈に捨てられようとしていたのだった。オイディプスは「腫れた足」という意味の名であるが、これはその赤子が捨てられた際に足首が貫かれ束ねられていた痕に由来するのであった。父殺しと、母親との結婚・出産というダイモーンを知り悲嘆に暮れた后イオカステは自殺し、オイディプスも最早何も見たくないと自らの目を貫いて、テーバイを出て流浪することを願うのであった。
厳格(無過失)責任は弁解を認めない厳しさを有し(uncompromising)、それは法の古い起源である復讐(the root of law in revenge)と関連性を有しているが、そのような復讐に由来する厳格責任をオイディプスの物語に見い出すことができる。何故ならばオイディプスは知らない内に父を殺し母と契ったのであるけれども、それでも罰を逃れないのであるから。
オイディプスの罰は人間の条件の暗喩である(metaphor of the human condition)。人はしばしば、知らないことが正当化されるような因果によって苦しむものなのだから。人はイノセント故に罰せられ得るのである(may be "punished" for "innocent")。
R. POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, at 60-61 (emphasis added).
古代ギリシャ人は、オイディプスが彼自身の存在状況に対し責任がある(was responsible for the circumstances of his being)とした。オイディプスであること自体、彼自身の存在、そして彼の為した行為が、である。責任は彼自身に課される(Responsibility attaches to his self, ...)のである。もちろん我々[現代人]はそのような結論を論外であるとして拒絶する。我々は、我々自身ではどうしようもできないことに対して責任がないのである(We are not responsible for what we cannot help.)から。
See Weinreb, A Secular Theory of Natural Law, infra, at 2294 (emphasis added).
オイディプスによる「自然の法則」(the natural order)に反する行為が「汚染」(pollution)であってそれが「罪」(guilt)である(その証=神の怒りとしてテーバイに疫病が流行る)という思想は、我々の現代的な感覚と調和しない。…過誤(fault)や非難可能性(blameworthiness)とは完全に無関係な点に於いても我々の同時代的思想と相容れないのである。
ソフォクレスは罪(guilt)と恥(shame)という二つの概念を区別していなかったとしばしば言われている。オイディプスが自身の犯罪を発見した際、目を潰して追放の刑に自らを処したのであるが、この処分は恥にこそ共鳴する。他人が自身を見ることが耐えられなかったからである。
See Fletcher, Collective Guilt and Collective Punishment, infra, at 171-72 (emphasis added).
自発主義(volitionalism)がアメリカの思想を席巻している。個人的かつ自由に選択した行為で、それを行わない選択も存在し得た場合には、結果に対して責任を負うべきだたと、圧倒的多数のアメリカ人は信じている。…。 オイディプスによる最善の倫理的努力にも拘わらず、運命は彼を非難するけれども、そのような非自発主義者的な態度はアメリカ的ではない。自身の運命を個人が舵取る権利(the right of the individual to direct her own destiny )を拒絶しているからである。
運命の動かし難い進捗が個人の選択を無意味にする際に於いても、行為に対して倫理的責任(moral liability)を課すさまをギリシャ劇は例示している。たとえばオイディプスは、自発主義者の視点から見れば自らの犯罪に対して全く非難されるべきではない(in no way culpable)。…。それにも拘わらず責任を課され、かつ倫理的な報いを受けた(suffers moral retribution)のである。 同様にアンティゴネもクレオンも、自身の管理を超えた運命に衝き動かされていたと見ることが可能であるにも拘わらず、自身の行為に対して完全に倫理的に有責になる。古代ギリシャ人は、倫理的非難または賞賛を、行為の結果に基づかせたのであって、行為者の意図や努力には基づかせなかったのである。このように結果を強調する態度が生じた理由は、たとえばオイディプスによる父親殺しのような重大な変化(material changes)が、テーバイの疫病のように更に大きな「倫理的」効果を惹き起こす(cause far reaching moral effects)のだと、相互に関係付けられて(interrelated)信じられていたからこその現象である。 / オイディプスが罪を犯したからテーバイは疫病に襲われるというように、行為者「以外」の他人に類が及ぶのである。ギリシャに於ける「汚染」の概念は、倫理と、重大な現実との相互関係に拠っているのであり、だからこそオイディプスの重大な行為が他人に対して倫理的結果(moral consequences)を及ぼすという関係が説明できるのである。 / 汚染は自然の法則(natural order)を壊す重大な条件の存在となる。「汚染」は、…倫理的かつ物理的な性格を併せ持つ。ソフォクレスと聴衆にとっては、自然と倫理的秩序(moral order)とは区別されていなかったのである。従って物理的、社会的世界の破壊が、倫理的な反響を生じ得たのである。反響は池の波紋のように、その破壊に全く関係の無い人々へも影響を与える。何故ならば無関係な人々も自然と倫理的な秩序の中で完全に一体化しているからである。だからテーベに於いてオイディプスの罰せられていな存在と、母親との関係が、未だ止まない汚染であり、それ故にこそ全市的な大惨事をもたらし続けていたのである。
See Williams & Williams, Volitionalism and Religious Liberty, infra, at 771, 792-93 (emphasis added).
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以上のように無過失責任性を非難する指摘が散見されますけれども、同じ古代ギリシャの哲人アリストテレスは、オイディプス王のような者は不正義ではないと以下のように指摘しているように拙ウエブページ作者には見受けられます。
それが不正行為(ないしは正義的行為)たるかいなかは、それが随意的たると非随意的たるとによって定まる。すなわち、それが随意的であるときにのみ彼は非難されるのであって、同時にまた、その場合はじめてそれは不正行為たるのである。したがって何らかの不正ではあっても、もしそれに随意的ということが付け加わらなければ、いまだそれは不正行為ではないであろう。/ 随意的と呼ばれるのは、…、その行為が自分の自由にできることがらであり、しかもひとがみずから識りつつ、…行うことがらである。すなわち、それらの行為は、いずれも遇有的な性質のものではなく、…。また、自分の殴打している相手が実は父であるのに、…それが自分の父であるとは識らない、などといったこともありうるし、…。
アリストテレス著、高田三郎訳『ニコマコス倫理学(上)』197頁(1971年、岩波文庫)(下線付加).
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『オイディプス王』は、子が親を殺す云々というライオスとイオカステへの神託の話や、その子の足を束ねて遺棄させる話とか、その子が救われてコリントに行く話とか、交差点での諍いから旅人の一行を殺害する話とか、スフィンクスの謎解云々の話等という複数の「話」(stories)から、構成されている。これらの話が複合的に語られ、蓄積して一つに統合されることによって、この「ナラティヴ」(narrative)は、相互作用を生んで社会化し(interactive and social)、事物や世界を理解する為の一つの方法(one collective way of knowing things, one communal mechanism for grasping the world)となるのだ。
Baron & Epstein, Is Law Narrative, infra, at 147-48.
アイスキュロス『オレスティア』(The Oresteia)は、以下の三部作から構成されています: 『アガメムノーン』、『コエーボロイ』、および『エウメニデス』(Eumenides)です。
「復讐=正義」という古代ギリシャ人の正義観が生む悪循環を指摘するのが、この三部作であると指摘されています。See WHITE, below and 久保訳 at 144-45.
『オレスティア』は、応報的正義(retaliatory justice)の物語であり、世代間に亘る「復讐の連鎖」(the chain of vengence)と、そのように途絶えることなく継続する復讐に対して社会が終止符を打つことのできる公的制度としての裁判と制裁の形成を讃えている。
WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, infra, at 246-47(emphasis added).
アトレウス(Atreus)とテュエステース(Thyestes)の兄弟は争い合っていた。和解の宴にアトレウスがテュエステースを招いたけれども、アトレウスはテュエステースの子供達を殺して、宴の食事にそれと判らないように供してテュエステースに食させてしまった。テュエステースの子供の一人は生き延び、それがアイギストス(Aegisthus)であった。アイギストスはアトレウスを殺害し、その子アガメムノン(Agamemnon)とメネラウス(Meneraus)達を追い払っててしまう。後にアガメムノンとメネラウスは権力を奪回するけれども、メネラウスの妃ヘレン(Helen)がパリス(Paris)に奪われる。その復讐戦であるトロイア戦争(Trojan War)にアガメムノン達が出征。アガメムノンの留守中にアイギストスはアガメムノンの妻クリュタイメーストラー(Clytemenestra)の愛人となる。クリュタイメーストラーは、その娘イービゲネイア(Iphigenia)が夫アガメムノンによって人身御供にされた恨みを抱いていた。クリュタイメーストラーはアイギストスと共に、帰還したアガメムノンを殺害。アガメムノンの息子オレステース(Orestes)は父の仇討ちとしてクリュタイメーストラーとアイギストスを殺害。オレステースは母親殺しの罪で、復讐の三女神(Furies)により、アテナイ神が司るアテネの「Areopagus裁判所」に於いて裁判に掛けられて無罪に至る。オレステースはもし自身が母親殺しの犯人でなければ、母親殺しに対する天賦の復讐者(natural avenger)たる資格があったのである。裁判が行われたことにより、復讐の連鎖は終わる。最早アイギストスへの復讐者は居ないのである。三部作の最終劇『エウメニデス』(Eumenides)は、復讐の連鎖を終焉させたいという希望ゆえに、古代に於ける最初の正式な裁判所である「Areopagus裁判所」が設立されたとしている。これにより、常設の刑事司法裁判所が無いことが復讐[を止められない]という関係を明確にしているのである。すなわち裁判が開催される迄は、オレステースによるクリュタイメーストラーの殺害も、正当化されかつ止むを得ないものとは言え、復讐されなければならなかったであり、それはあたかも、アガメムノンによる娘の人身御供も、ゼウスの命によるトロアイ戦争の勝利の為には避けられないものであったけれども、やはり復讐されねばならなかったことと同じだったのである。
See R. POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, at 60-61.
AESCHYLUS, AGAMEMNON / アイスキュロス作、 久保正彰訳 『アガメムノーン』(1998年、岩波文庫)
あらすじ: パリス(Paris)に妃ヘレン(Helen)を奪われたことから端を発したトロイア戦争(Trojan War)。その戦争で勝利し帰国しつつあるのはギリシャ軍の総大将でアルゴスの王アガメムノン。その妃であるクリュタイメーストラーは、夫の勝利の帰還の報を受け喜びを表すのだった。この戦争では、嘗てギリシャ遠征軍の船が嵐に遭い、アガメムノンはクリュタイメーストラーとの間に出来た自らの娘イービゲネイア(Iphigenia)を、女神アルテミス(Artemis)への人身御供にしなければ嵐から軍船を助けられない状況に陥って、止む無くその命を下していた。すなわち戦勝は手放しの喜びという状況ではなく、更に戦争は敗者トロイアにも悲惨な結末を迎えさせていたのだった。帰還したアガメムノンを喜んで迎えるクリュタイメーストラー。しかし、奴隷としてアガメムノンが連れ帰ったトロイア王族の娘であるカッサンドラーは、アガメムノン一族への呪いから殺害が生じる云々と不吉な予言を告げる。かくしてクリュタイメーストラーは態度を一変させ、アガメムノンの留守中に不義密通していた義弟のアイギストス(Aegisthus)と共謀し、夫を謀殺してしまう。クリュタイメーストラーが夫を殺したのは、娘イービゲネイアを人身御供にされた為の復讐ゆえか、はたまたアイギストスとの密通が原因か…?他方、アイギストスがアガメムノン謀殺に加担した理由は、アイギストスの父テュエステース(Thyestes)が、その兄弟であるアガメムノンの父王アトレウス(Atreus)によって国を追放されたり、更には帰国を赦された後にはその子供達を肉料理にされて知らぬ間にテュエステースに食させられたりしたことへの仇討ち・復讐であった。因果と復讐の結末たるアガメムノンの死は、その子オレステース(Orestes)によって更なる仇討ちの復讐劇『コエーボロイ』へと引き継がれ、復讐の連鎖は『エウメニデス』に於いてオレステースに対する裁判で決着する顛末へと進む三部作構成劇(トリロギアー)と連なって行く…。
『エウメニデス』に於けるオレステースの裁判は、復讐によって執行される絶対責任(absolute liability)の制度から、現代的意味に近似した非難可能性(blameworthiness)のようなものに基づく法的責任(legal liability)の制度への移行を劇化している。
復讐の三女神(Furies)に追われたオレステースは、彼に母親を殺すように奨励したアポロンの所に逃げ込む。神が命じた行為を理由に自分が罰せられるのは不公正であるとオレステースは思ったのである。アポロンは彼に賛成して、非難を回避する為に裁判を開催するという考えを提案する。その裁判手続は、紀元前5世紀のアテネの裁判に酷似したものだった。復讐の三女神は次のように主張する。クリュタイメーストラーによる夫の殺害が罰せられ得るものである(この点は明らかにオレステースの防禦でもある)ならば、オレステースによる母親殺しも同様である、と。これに対して思いつく反論は、クリュタイメーストラーを殺害したのは彼女の行為に対する処刑・執行なのであって、殺人ではなく、正当化され得るのである、というものである。しかしながらクリュタイメーストラーによるアガメムノン殺しも、夫による娘殺しを罰する行為であるとして正当化され得る。従ってオレステースとしてもクリュタイメーストラーによるアガメムノン殺しが正しかったと主張せざるを得なくなるか、または、クリュタイメーストラーによるアガメムノン殺しは政治的謀反であってアガメムノンの誤りに対して大き過ぎる罰であったと主張することになる。 / オレステースはしかしそのような主張をせず、復讐の三女神がクリュタイメーストラーを罰してさえいればオレステースが手をかけずに済んだはずだと主張した。これに対して三女神は、罰せられるのは血族(relatives by blood)同士の殺害だけであると主張し、妻による夫殺しは対象外だとした。この主張に対しオレステースの弁護人であるアポロは、オレステースもクリュタイメーストラーの血族ではないと主張し、その理由として、オレステースは父アガメムノンの子ではあるけれども、母親というものは父の子を単に体を貸して生んだ(incubator)に過ぎない、父親こそが真の親である、という解釈を持ち出した。姻族(relatives by marriage)は復讐[=正義]の対象外とした三女神による恣意的な(arbitrary)制度上の不公正さを、逆に利用して、母親の身分を夫より落とした(belittlement)解釈をすることによって切り返したのであった。
See R. POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, 63-64.
「衡平法」(equity)的な分析?
Kenji Yoshino, The Lawyer of Belmont, 9 YALE J. L. & HUMANITIES 183 (1997).
「大岡裁き」?
THE CASE OF "OOKA AND THE STOLEN SMELL" in Elizabeth Villiers Gemmette, Symposium on Legal Education: Law and Literature: Joining the Class Action, 29 VALPARAISO UNIVERSITY L. REV. 665, 676 (1995) (ストーリーテリングの有する説得力を示す例として匂い泥棒の大岡裁きの例を示している).
No author of imaginative literature seems to have had more to say about law than Kafka. himself a lawyer, whose great novel The Trial ....
R. POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, at 127.
参考文献:
以下、ポピュラー・カルチャー系や映画作品を紹介します。
映画における「法曹もの」には、ポール・ニューマン主演の「評決」(The Verdict, 20世紀フォックス1982年)がある。ポール・ニューマンはburn outした人身傷害を専門にする弁護士役である。「黒と白のナイフ」(コロンビア映画1985年)ではグレン・クロースが刑事弁護人になり、危険なことにその依頼人と恋愛関係に陥る。「フィラデルフィア」(トライスター映画1992年)では、トム・ハンクス演じる弁護士とその代理人役のデンゼル・ワシントン演じる弁護士が、AIDSを理由に解雇した法律事務所を相手に戦う。
Papke, infra at 475 & nn. 26-28.
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同作品に於いては、黒人の被告人が、証拠上は無罪となるべきだと視聴者には思われるにも拘わらず、白人達から構成される陪審員によって有罪の評決を受け、その後、不遇の死を遂げる展開を見せます。この問題は、「陪審による法の無視」(jury nullification)の問題の一つではないでしょうか?jury nullificationについては、評者の別のページ「陪審制度」の中の「陪審裁判はアメリカ文化の特徴に合致している」の項を参照下さい。
参考文献:
MICHAEL ASIMOW & SHANNON MADER, LAW AND POPULAR CULTURE: A COURSE BOOK xxi, 31-45 (2004).----- 法と映画を論じるこの書籍に於いて、「アラバマ物語」に一つの章を割いて以下のように解説しています。
Atticus Finchは最終弁論に於いて勇敢にも以下のように述べている。
In our courts all men are created equal. I'm no idealist to believe firmly in the integrity of our courts and our jury system. That's no ideal to me. That is a living, working reality.
Atticus Finchの英雄的な姿は多くの若者を法曹の道へと導いた。/ 3百万部以上が売れて、数知れない程の高校生と学部学生が文学の授業で読んでいる本。Atticus Finchは作者の父である弁護士がモデル。作者自身はアラバマ大ロースクールに行ったけれども卒業せず退学。映画ではグレゴリー・ペックがアカデミーの主演男優賞受賞。アメリカ映画協会でベスト34位の作品。
トライアルの場面は[πや剴凾フ特定の]誰かの視点から撮られていのではなく「客観的」に撮られている。極端なクローズアップも多用されていない。このように撮影技法を凝らないことによってトライアルがフラットに映し出され、法律の世界が子供の世界から隔絶している感を出すのに貢献している。本作品は世界を大人が如何に子供とは異なって観ているかをも描いている。
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更に「アラバマ物語」の黒人問題の論点に関して、Asimow & Naderは以下のようにも述べていますので紹介しておきましょう。
Id. at 37-38.
確かに批評家の言う通りかもしれませんが、あまり僻(ひが)むような批判ばかりすることは、後掲R.ポズナーが非難するナラティヴィストの負の面が際立つようでもあり、却って賛同を得られない気がしますが、如何でしょうか?(後掲「リチャードA.ポズナー判事によるナラティヴ学派への批判」の項参照。) ところでAsimow & Naderは続けて、「フィラデルフィア」が少し変則的であると以下のように分析しています。
Id. at 38.
しかし、ジョン・グリシャム原作の「ペリカン文書」(ジュリア・ロバーツ&デンゼル・ワシントン)に於ける黒人ジャーナリストは、積極的な役割を演じていたと思われますが如何でしょうか?
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以下をクリック下さい。「12人の怒れる男」の頁。
参考文献:
MICHAEL ASIMOW & SHANNON MADER, LAW AND POPULAR CULTURE: A COURSE BOOK 17-29 (2004).----- 「或る殺人」に一つの章を割いて以下のように解説しています。
50年代から60年代にかけての「the golden age of legal films」の作品の一つ。法律映画の黄金時代の他の代表作は「12人の怒れる男達」である。
参考文献:
Richard A. Posner, The Depiction of Law in the Bonfire of the Vanities, 98 YALE L. J. 1653 (1989). ----- '89年のYale Law Schoolに於けるPopular Legal Cultureに関するシンポで、R. Posnerが『虚栄の篝火』を厳しく評価しています。
同作品は、悪人ばかりが登場し、人間(humanity)を悪く描こうとしてその善な面は無視している。See id. at 1656. ブロンクスに於ける正義の存在しない司法を描きながらも、その解決策を示さない点に於いて無責任である。See id. at 1658. ディケンズのような[high cultureな]文学作品には遠く及ばない。 See id. at 1659. 「法と文学」の学問分野は、時代を経て支持されて来た「literature」と呼ばれる作品のみを[研究の]対象にすべきであり、同時代の一時的な大衆の支持を得ただけの本作品のようなものを対象にすべきではない、See id. at 1661.
と。
参考文献:
MICHAEL ASIMOW & SHANNON MADER, LAW AND POPULAR CULTURE: A COURSE BOOK xxii, ___ (2004).----- 「評決」に一つの章を割いて以下のように解説しています。
この映画を見終わってから法曹に成ろうと思う者は殆どいないであろう。
「法律事務所」THE FIRM
「依頼人」THE CLIENT
…
「ニューオーリンズ・トライアル」THE RUNAWAY JURY
『パートナー』
法律の学位を有する者が被告人になるというプロットは興味深い。グリシャムのでは、パトリック・ラニガン弁護士が潜伏中のブラジルで拉致されてミシシッピー州の法廷に連れ出される。しかし彼は、捕まる前からトライアルで被告になることを予想した完璧な防御を準備していたという展開になる。Papke, infra at 483-84.
「推定無罪」THE PRESUMED INOCENT
法律の学位を有する者が被告人になるというプロットは興味深い。 スコット・トウーローの『推定無罪』は、検事のラスティー・サビッチが、同僚の女性検事キャロリン・ポルヘマス殺害の疑いで起訴される。この小説と映画は、検事自身が訴追される身になるので、検事が弁護士側に成り代わるという面白い設定になっている。被告寄りな判事が自分の事件を担当することを知ったサビッチは、いつもは検事としてその判事の前で遅延戦術を用いて来たのだけれども、自分が被告人の身の今回ばかりはその判事の担当になったことを喜ぶのである。 Papke, infra at 483-84.
「囮弁護士」THE PERSONAL INJURIES
…
参考文献:
Robert F. Blomquist, Book Review [of THE CIVIL ACTION by JONATHAN HARR (1995, Random House)]: Bottomless Pit: Toxic Trial, The American Legal Profession, and Popular Culture Perceptions of the Law, 81 CORNELL L. REV. 953 (1996). ----- 同作品の主人公(映画版ではジョン・トラボルタ扮する)であるπ側弁護士のJan SchlichmannとCornell Law Schoolで同級生であったBlomquist教授(Id. at 954 n.7)が書く書評です。
The National Book Awardの最終選考に挙がったこのA CIVIL ACTIONのような作品は、事実に基づくフィクションであるから「faction」(または"true fiction")に分類でき、映画版の方がその色彩はより強い。Id. at 956, 984-85. 素人(i.e.,非法曹)がアメリカ司法制度を批判的に捉えている様を示している点に於いて『虚栄の篝火』(THE BONFIRE OF THE VANITIES)と同様である。Id. at 957-985. 更に政治的なキャラクター設定に於いても『虚栄の篝火』に似ていて、金銭を巡って大物の訴訟弁護士("big shot" trial lawyer)が争い合う様を描いている。Id. at 958. [成功を収めた若手弁護士の]Jim Schlichmannが最後には政治的・法律的な闘争で敗れる様は、『虚栄の篝火』に於いてSherman McCoyが敗れる様と同様である。後者がsnobで貪欲で虚栄に満ちたNew Yorkを描いているのと同様に、前者は人間の悪徳(human vice)で支配されたBostonを描いている。[両者共に]司法制度は不正義に対して"お義理程度"(only marginally)にしか反応しないのである。Id. at 957-88. Jan Schlichmannの性格上の問題はその貪欲さ(greed)にあり、自身の利益を依頼人のそれよりも優先させてしまう点に於いて法曹倫理(professional responsibility)的にも幾つかの問題がある。See id. at 978. 企業剔、弁護士のCheesemanにも依頼人企業が真実を話していないことを知りながら弁護を続ける点において倫理上の問題がある。Id. at 984-85.
と、以上のように評価しています。
アール・スタンレー・ガードナーは、かつてカリフィルニア州の個人開業弁護士であったが、「ペリー・メーソン」という弁護士を作り出した。ペリー・メーソンが出てくる80の小説において彼は依頼人を救い出せないという失敗を一度もせずに、必ず(普通はトライアルの結論部分で)真犯人を探し出す。
現代でも、ガードナーのような法曹作家の伝統は脈々と生きづいており、スコット・トウーローやジョン・グリシャムなどはその好例である。
See Papke, infra at 474.
テレビにおける法曹では、1957年〜66年CBS放送の「ペリー・メーソン」がこの種のジャンルの中でもっとも人気が出た。そして、これらのテレビシリーズではほとんど全ての法曹が、刑事事件を扱っていた。
Id. at 476, n.33.
法曹のキャラクターについては、検察側も弁護士側も、そのどちらもヒーロー役を担わさせられることが可能である。しかし、第二次大戦以降は、ヒーロー役である法曹は弁護側に座ることが多いようだ。ペリー・メイスンなどはその典型で、彼はいつも冤罪を科されつつある無実の者を弁護し、検察側は悪者に描かれる。このように、戦後の作品で検察側が悪者に描かれる背景には、マッカーシー旋風への反発が影響を与えているという指摘もある。1940年代後半から50年代初めにかけての反共魔女狩り旋風では、多くの個人的人権が侵害された。したがって、アンポピュラーな依頼人のために権力と戦うという被告人弁護士の姿は、マッカーシーの支持者達への反動として理解できるものである。
Papke at 482-83.
1980年代からは、「L.A. Law (エル・エイ・ロー)」(1986年〜94年CBS放送)が人気を博した。その中の弁護士たちは、素敵なオフィスを与えられ、高級自動車を乗り回し、少なからず性的な関係に陥る。しかし同時に、一回の番組の内、少なくとも一度は(多い場合には数回)出廷シーンが放映されていた。
Papke, infra at 476-77 & n.40.
「L.A. Law」では、裁判所が迅速で効率的な司法手続の進行を示すので、現実世界における遅延ぎみで非効率な伝統的法廷を矯正させる影響を持つかもしれない。
Papke at 480.
1990年から続いているNBCテレビの「Law & Order (ロー・アンド・オーダー)」においても、法曹は、法廷術に長けていて、法廷ドラマの人気を上昇させた。
Papke, infra at 476-77 & n.40.
検察側の法曹がヒーロー役を配役されるようになったのは、ほんの最近のことである。「Law & Order」におけるSam Waterstonらの法曹が、検察側のヒーロー役の例である。以前、「Law & Order」を未だ余り知らなかったときに私は、「Law & Order」の番組内容からすると、その順序は「Law & Order」ではなくて、「Order &Law」ではないか、と云ったことがある。何故なら番組の前半で警察が活躍するのは正に「Order」[秩序]を象徴しており、後半で検察が活躍する部分は正に「Law」だからである。 それにしても検察側がヒーローのトレンドが何時まで続くかは不明である。
Papke at 483.
「アリーmyラブ」における弁護士ジョン・ケイジは、アリーの特異な心理との共通項を有する唯一の同僚で、事務所内でもっとも優れた法廷技術を有している。陪審員たちをして、ケイジの主張に共感させしむることができるのである。
Papke, infra at 477.
『ベニスの商人』や『審判』が法と文学に於ける代表的題材であり、『Civil Action』がサブ・ジャンルたる法とポピュラーカルチャーの代表作である旨は、例えば以下の記述からもうかがい知れます。
While A Civil Action, as a type of faction, is not a masterpiece of world law-related literature, like The Merchant of Venice [] or The Trial, [] it is, nevertheless, a best-selling literary expression of American polpular culture. As noted by Richard A. Posner, "anyone who has even a nodding acquaintance with modern American polpular culture realizes that it is suffused, even preoccupied, with legal themes." n185
n185. Richard A. Posner, Overcoming Law 481 (1995).
Robert F. Blomquist, Book Review, Bottomless Pit: Toxix Trials, The American Legal Profession, and Polpular Perceptions of the Law, 81 CORNELL L. REV. 953, 985 (1996) (emphasis added).
First Up-loaded on Jan. 19, 2005.
リチャードA.ポズナー判事は以下のように両者の差異を述べています。とても参考になります。
法は社会コントロールの制度であり、かつ、テキストの集合体である。その作用は社会科学によって解明され、かつ倫理的基準によって判断される。他方、文学は、芸術であり、その解釈の最善の方法は美的なものなのだ、と。
See RICHARD A. POSNER,『LAW AND LITERATURE 』 7 (Revised and Enlarged Ed. 1998).
更に、後掲のGary Mindaが、法と文学の違いを以下のように示しているのも参考になるでしょう。
すなわち、法律実務では、その作者と読者の双方に対し、やりたくないかもしれないこともするように言わねばならない。しかし、文学では、もしもある詩歌や小説が好みでなければそれを捨て去って無視することが可能である。法の方はその言葉に対して注意を引き、かつ、従うように求めるものなのだ、と。 Minda, infra at 181.
更に、有名なドゥウォーキンの著書『法の帝国』を出典としながら、以下のように説明している点も興味深いところでしょう。
すなわち、ロナルド・ドゥウォーキンの用いた「チェーン・ノベル」("chain novel")というメタファーが、法と文学の違いを表している。法律の世界では、判事(法律界の作家)はチェーン・ノベルのように、先達の作家/判事達の描いた基本的な物語から逸脱することが許されない。全く新しい物語を創作するような、文学に於ける作家に許されている作業が法の世界では許されていないのだ。法では、関連する法理を定義付けている基礎的なナラティヴ・プロットを無視することが許されていない。法の世界の作家は、法の基礎的なstory lineに固執する。 判事達のチェーン("chain" of judges)を更に発展されるというこの作業こそが、法の発展を上手く説明している。
Minda, infra at 181 n82(RONALD DWORKIN, LAW'S EMPIRE 379-80 (1986)を出典として示しながら).
First Up-loaded on Nov. 21, 1999 revised on Jan. 15, 2005.
この項では、まず、「法と文学」の研究に於ける分類を以下のように例示してみましょう。
「Law & Literature」(法と文学)という学際的学問分野は、以下の二つに分類されるという説があります。
1.「Law Literature」(文学の中の法)は以下の領域を研究対象とする。
2.「Law Literature」(文学としての法)は以下の領域を研究対象とする。
以下のように三つに分類する説もあります。
1.ヒューマニスト(人文主義的)「法と文学」
2.解釈学的(hermeneutic)「法と文学」
3.説話・物語的(narrative)「法と文学」
出典: Jane B. Barton, Law, Literature, and the Problems of Interdisciplinarity, 108 YALE L. J. 1059, 1063-1073 (1999)(「law ands」な学際的研究分野に於いては、そもそも「法」の扱う管轄の定義が曖昧なので、駄目である、と批判する論文).
法律には素人の陪審員が、抽象的で複雑な争点に取り組む手法として、事件を物語にして理解しようとする旨の指摘は、アメリカの法律論文でもしばしば指摘されています。
See, e.g., Nancy Pennington & Reid Hastie, A Cognitive Theory of Juror Decision Making: The Story Model, 13 CARDOZO L. REV. 513 (1991).
First Up-loaded on Feb. 24, 2005.
「文学の中の法」の研究者として有名なのが、証拠法の権威として名高いJohn H. Wigmoreです。 Pantazakos, the Law and Literature Movement, infra at 38-39. 彼は、文学の中に見い出される法に関する物語を、法学生に紹介しようと試みて、1908年に以下の有名な論文を発表しています。 (なお、ウイグモアは、来日していたこともあり、比較法の分野でも有名で、日本の江戸時代の法律に関する業績も多数ある人物です。)
この論文に於いてウイグモアは、以下のように述べたと指摘されています。
「法律家は人間性を知らなければならない」のだから法律小説を読むべし、と。
出典: Jane B. Barton, Law, Literature, and the Problems of Interdisciplinarity, 108 YALE L. J. 1059, 1083 (1999)(「law ands」な学際的研究分野に於いては、そもそも「法」の扱う管轄の定義が曖昧なので、駄目である、と批判する論文).
現代の法と経済学ムーブメントの父と言われるのは、Richard Weisbergです。シカゴ大学のヒューマニティ学部の助教授を1971-75年まで勤めていました。 Minda, infra at 173 n71.
First Up-loaded on Feb. 23, 2005
「文学としての法」に於ける代表的な研究者は、James Boyd Whiteです。
なお、ホワイトよりも前の世代の、有名なニューヨーク州の判事Cardozoを「law as literature」の創設者と位置付ける説もあります。 Mihael Pantazakos, Ad Humanitatem Pertinent: A Personal Reflection on the History and Purpose of the Law and Literature Movement, 7 CARDOZO STUD. L. & LITERATURE 31, 38-39 (1995)(控訴審裁判所の判例中の意見の表現に興味を抱いていたカードーゾ判事の姿勢ゆえに「law as literature」の始祖と位置付けている).
ホワイトは、前掲のウイグモアと異なって、法はそれ自身が文学的活動である(law was itself a "literary" activity.)ことを説明すべく、文学的な知識を示そうと試みました。 Minda, infra at 172.
最初に独立して組織的に「文学としての法」を扱った業績は、以下が初めてであったともいわれています。 Pantazakos, the Law and Literature Movement, supra at 39.
上の有名な本は、ロースクールの教科書で、中ではホワイトが以下のように主張していると指摘されています。 Pantazakos, the Law and Literature Movement, supra at 39.
"law is not a science - at least not the 'social science' some would call it - but an art"
WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, supra at pp. xxxiv-xxxv.
更に以下の論文から、ホワイトの立場を紹介してみましょう。
出典: Gary Minda, Cool Jazz But Not Hot Literary Text in Lawyerland: James Boyd Whie's Improvisations of Law as Literature, 13 CARDOZO STUD. L. & LITERATURE 157 (2001).
ホワイトは、繰り返し、「シカゴ学派」("Chicago School")による法と経済学の科学的かつ理論的なモデルに対して批判を述べている。シカゴ学派は、法律の言葉を経済用語に代えてしまうことを通じて法の文学的な性格を飲み込んでしまうと危惧しているのだ。 Minda, supra at 159.
言葉というものは常に「暫定的」("tentative")である。したがって言葉(language)を用いたtermは常にarguableなのである。 法律家が法の意味や事件の事実の意味を議論する際には、文学者が考えるのと同じように、言葉とstory lineを用いた実験をしている。文学的な考え方と同様に、法律家は「暫定的」な意味の法の言葉を用いて新しい意味と新しいstory lineをもたらせる実験をしているのである。 Minda, supra at 161.
ホワイトによれば、「法」と「経済学」との決定的な違いは、各々がその言葉と世界に対して異なる態度を持っている点である。 一方の経済学者の方は、その経済用語こそが適切に社会生活の中心的なメタファーを構築できると理解し、その点に大きな問題がある。他方、文学的に言葉というものを理解する際には、全ての言葉には限界がある(all languages are "limited.")と理解している。それはある言語から他の言語への完全な翻訳が不可能であるのと同じである。全ての言語には限界があるから、誰も完全な真実を述べることが出来ないのだ。人に必要なのは、ある人の主張の完全な翻訳が不可能であることを認識した上で、他人が他の言葉で主張する真実を謙虚に聞く耳を持つこと ("the most profound obligation of each of us ... is to try to ... acknowledge the terrible incompleteness of all speech, and thus to leave oneself open to hearing other truths, in other languages" JOHN BOYD WHITE, JUSTICE AS TRANSLATION: AN ESSAY IN CULTURAL AND LEGAL CRITICISM (1990)(emphasis added))なのである。法律の言葉も常に挑戦されいつもarguableなのだから、ホワイトのいう言葉の限界に従う必要があるのだ。 Minda, supra at 162 n26, 176.
弁護士が依頼人と会話をする際には2つの言葉のシステムを使っている。一つ目は、依頼人の抱える問題をよりよく理解するために依頼人の言葉を理解しなければならず、二つ目は依頼人側も弁護士の言葉を理解するように奮闘するということである。 / このような弁護士と依頼人との間の不完全翻訳を通じた相互作用によって、新たな法の意味と力が生まれるのである。 Minda, supra at 164.
ホワイトは、法の中に自律的(autonomous)な言語的実務が存在すると信じている。しかしシカゴ学派とその分派による科学的な手法は、ホワイトの主張を破壊し、経済用語によって法に於ける正義を発見する方法を見つけるという影響を与えている。 Minda, supra at 166.
1973年にホワイトがシカゴ大学ロースクールに来た際に、同大学では、法律学が自律的であるとする伝統的な「リーガル・プロセス理論」(Legal Process Theory)が主流であった。 Edward Leviによる1943年の『AN INTRODUCTION TO LEGAL REASONING』がその理論を宣言していたのである。 / そのLeviの古典的著作は、「類似点と相違点」("similarity and difference")の概念を押し進めることによって、変転する事実にも当てはまるルールの採用を法的リーズニング(推論)で可能ならしめると説く。従ってリーガル・リーズニングは、事実とルールの広くかつ狭い性格付けによる「類似点と相違点」の概念を基礎にして、事実と法を解釈するトレーニングを通じて教えられたのである。どのルールを用いるべきかについての抵触が存在する際に、好ましいルールを当てはめるように事実と法を性格付けするように学生はトレーニングされたのだ。 / Leviの概念を分かち合った法律学者達は、法律学の自律性を信じていた。 / Leviによる「コモン・ローの考え方」("common-law mind")はホワイトによる文学としての法の概念を発展させる際の基礎となった。Leviのいう「類似点と相違点」に基づく法律論議からリーガル・リーズニングが解釈できるならば、法の言葉が「暫定的」で「常にarguable」だとするホワイトのような文学としての法の主張も理解できよう。 Minda, supra at 167-68.
1972年にシカゴ大学のポズナーが上梓した『ECONOMIC ANALYSIS OF LAW』は、法と経済学ムーブメントの聖書となった(became the bible for the law and economics movement)。「シカゴ学派」は、法が効率性である(law is efficient)という視点を抱くことによって最も良く理解できると説く。 ホワイトは、法の基礎的で正式な性格が経済学から演繹[推論]可能であるという概念を受容しつつある環境の真っ只中に置かれたのである。 Minda, supra at 170.
ポズナーのテキストブックは、「人は、人生の目的を合理的に極限化させる者である」という前提を採用することによって法の論理が最も良く理解できる、という単純な概念に基礎を置く。学生は、彼ら自身の最初の直感を信頼しないように教えられ、「法律家のように考えること」("Thinking like a lawyer")はすなわち「経済学者のように考えること」("Thinking like an economist")であると教えられ、常識的なセンス(common sense notions)は信頼できないものだと教えられた。更に学生は、経済学者の用いる「非現実的」("unrealistic")な合理的行為者のモデルを用いるように教えられたのである。 Minda, supra at 172.
従って法の経済学的分析という新しい学派は、ホワイトと対立することになった。何故ならホワイトは、学生に対し、自らの直感に従って独立したアーチスト(as independent artists)として自ら思考することを奨励したからである。 Minda, supra at 173.
ホワイトは、法の有する人道的(humane)な性格が、法的経済学の道具理論的な計算によって危機に晒されていると言う。 確かに「シカゴ学派」が法律家や判事の法に於ける書き方や言論を変化させたことに疑いない。「取引費用」とか「只乗り」とか「コースの定理」などの新しい言葉も、今では、法分野の一部になっているからである。 しかしホワイトを心配させているのは、「シカゴ学派」の影響の結果として経済学を法の唯一の言語であると間違って受容されてしまうことなのである。 Minda, supra at 174 & n72.
First Up-loaded on Jan. 15, 2007.
上の項に於いてMindaによるWhiteの主張を紹介しましたが、本項ではWhite自身がその代表作である『LEGAL IMAGINATION』に於いてどのような主張をしているのかを紹介してみましょう。
「メタファー」、「アエロニー」、および「多義性」
WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, infra, at 47-48, 54-55, 57, 215.
法律(e.g., 条文や判例)も、確かに「多義的」な解釈が可能な存在ですから、「多義性」という特徴は法を論ずる際に非常に重要であると思われます。
「キャラクター」(人物特性描写)と「カリカチュア」(戯画)の違い
WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, infra, at 113-14.
法律家として必要な言葉の技能
See WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, infra, at 244, 249, . 確かにトライアルに於いてπ側弁護士による主張・立証(レトリック)の巧みさによって、陪審員が刳驪ニに対して超高額な懲罰賠償を下したという話は散見できます。たとえばホットコーヒー訴訟などもその類かもしれません。
出典: JAMES BOYD WHITE, THE LEGAL IMAGINATION (Abridged Ed. 1985, The University of Chicago Press).
First Up-loaded on Jan. 24, 2007.
J.B. Whiteの指摘は、以下のAsimow & Maderによる「テキスト」の意味の分析からも学ぶことができるのではないでしょうか。
あらゆるテキストは、一つの権威のある意味以上の解釈を招き、かつ生み出す。従ってテキストの起草者が暗号化(encoded)した意味は、観察者が複合化(decoded)した意味とは全く異なるものかもしれないのである。
たとえば「ゴッドファーザー」を通じてフランシス・フォード・コッポラは、法を守らないコルレオーネ・ファミリーがアメリカ司法制度を表し、その無慈悲なビジネスのやり方がアメリカ資本主義のメタファーであることを意図していた。しかし観客は、コッポラの意図とは全く異なって、神話的な家族と古きコミュニティの概念を描いた映画であると誤解した。更に観客は、貧しい姿で描かれた[パートIIの]ヴィトー・コルネオーネが、克己と努力によって成功し得る様を描いていると誤解したのだった。コッポラは観客の誤解に失望を表している。
See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 11-12.
First Up-loaded on Jan. 12, 2007.
...。
最終陳述(closing argument)は長々と行うよりも、短くする方が効果的であるという実務的な指摘を紹介します。この指摘は、嘗て訴訟弁護士であった裁判官が、評者の所属するABA(全米法曹協会)の「訴訟部会」(Section of Litigation)の機関誌(『LITIGATION』誌)に於いて紹介しているものです。
その判事曰く、嘗て聞いた最終陳述の中で最も効果的なものは、僅か3〜4分の長さであったとのこと。その事件は、とても魅力的で人好きのする女性(a very attractive and likable woman )の原告(π)がひどく醜い身体障害(a terribly disabling and disfiguring injury)を被った事件で、企業被告(凵j側の弁護士が、以下のように短く効果的な最終陳述を行ったというのです。
私はジョーンズ夫人[π]を好きですし尊敬もしています。[彼女が]こんなに酷い被害を負ったことを私が如何に気の毒に感じているかを表す言葉も見つからない程です。しかし、皆さんは各々、陪審員選別手続の際に、私の依頼人がたとえ巨大な企業だからと言っても、もし彼女の弁護士がその主張を立証できず、もし私の依頼人が事故に対して責任があると証拠が示していなかったならば、πに対して何の賠償も付与しないと、約束して下さっています。私は皆さんを信じてこの事件を審理するように選抜したのです。
...。私はジョーンズ夫人を気の毒に思っていますが、しかし私の依頼人は彼女に被害を負わせてはいないのです。数分後に相手方弁護士は最後の陳述を行うでしょう。彼は再び多額な賠償をあなた方に御願いするでしょう。[しかし]この審理に於ける証拠を思えば、もし私が彼ならば、如何なる額の賠償であっても要求することに気が引けるはずです。それは彼女が被害を負っていないからではありません。勿論彼女は被害を負っています。[が、しかし]それは問題ではありません。賠償を要求することに気が引けるのは、彼女の被害が私の依頼人によって生じていないからです。 ...。
...。[ご清聴]ありがとうございました、淑女紳士の皆さん。
この最終陳述を聞いた陪審員は、結局、企業凾ェ無責であるという評決を下したとのことでした。
出典: Larry M. Boyle, From the Bench: A Judge of the Jury, LITIGATION, Vol. 32, No.4, at 3, 69 (2006) (現役裁判官が、陪審員として召集されて実際に経験した陪審裁判の内容を紹介する記事) (訳は評者、強調付加).
First Up-loaded on Jan. 25, 2007.
法曹映画作品では(でも)、映像表現に於ける様々な技法が用いられてリアリティーを視聴者に感知させてようとします。そのような技法の意味を、Asimow & Maderが以下のように指摘しているので紹介しておきましょう。
See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 13-14.
First Up-loaded on Jan. 16, 2007.
本ページの筆者が拙書『アメリカ不法行為法』12-13頁(2006年、中大出版部)に於いて例示したように、たとえばオスカー・ワイルド著『幸福な王子』は感動を与えますが、そのようなナラティヴな著述は社会科学的な問題の分析に反するという指摘は、以下でも見受けられます。
See WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, infra, at 249.
なお、ナラティヴへの批判については、以下の項目「リチャードA.ポズナー判事によるナラティヴ学派への批判」も参照下さい。
First Up-loaded on Jan. 26, 2007.
White教授は、テクストが多義的であるという前掲の指摘や、ナラティヴが社会科学的分析に相反するという前掲指摘に続いて、歴史家も同様な問題を抱えるとして以下のように分析しています。
歴史家は法律家と同様に、同時に二つの話法(discourse)に関与する。すなわち一つは物語を語り(tells a story)、二つ目としてその意味(解釈)を語る(tells us what it means)のである。
そこで歴史家は、物語と理論との緊張関係(a tension ... between story and theory)に直面する。法律家同様に。
そこに生じる危険の一つは、物語を自らの理論に適合させ(fit the story to his theory)ようとする危険である。
もう一つの危険は、真実を語らずに、彼の見た型にはめて語ってしまう危険である。些細な点を語り過ぎたり不必要な疑念を差し挟んだりして曖昧化する虞である。
See WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, infra, at 263. 確かに「法と行動科学(認知心理学)」上の指摘に於いても、人は自ら見たいものを見る、という認知上の偏見が指摘されています。拙書『アメリカ不法行為法』212, 404-05頁(2006年、中大出版部)参照。
歴史家は、御伽噺とデータとの二つの極端の間で働く(operates between two extremes, between fairy tale and data)のである。
歴史家の主な活動は、出来事の意味の想像的な主張と防禦(an imaginative claim and defense of meaning for events)であるから、それはドラマや小説や法律の活動と似ているのだ。
See id. at 268, 269.
First Up-loaded on Jan. 25, 2007.
「法と映画」や「法と法曹番組」等との関係を分析する「法とポピュラーカルチャー」の分野に於いて重要な考慮要素の一つとして、映画やTV番組が視聴者に与える影響力等の把握という点を挙げることができるでしょう。
そもそも法曹や法制度等に関連する映画作品は、実際の現実よりも現実感を生み出しているという指摘が以下のようにあります。
映画の場合にはその画面の大きさや、技巧を凝らした演出、音楽、および演技によって単なる現実を越える程にリアリティーがあるように見える(seem more real than just real)。
See MICHAEL ASIMOW & SHANNON MADER, LAW AND POPULAR CULTURE: A COURSE BOOK 13 (2004). すなわち視聴者がリアリティーのある感動を作品に求めるので、この欲求に応じて作品が作られるから、このようになるという訳です。Id at 12-13. なおリアリティーは、視聴者自身の経験や、過去のポピュラーカルチャー作品で視聴者が経験している内容に呼応して生まれます。視聴者はそのようにして作られたリアリティーに対して「情動的反応」(emotional response)を示すのです。Id. そのような作品の問題をAsimow & Maderは以下のように指摘しています。
リアリティーがあるように作られた作品は、それがあたかも真実であるかのごとくに視聴者に信じ込ませるから、映画製作者は自身の世界観や歴史観、または自身の政治的あるいは思想的視点を視聴者に与えて、視聴者はそのような製作者の見解をリアリティーが伴う故に受け入れてしまい得るのである。
Id at 13.更に次のようにも指摘しています。
「プラトーン」や「JFK」のようなオリバー・ストーンの諸作品...は、監督自身の思想を押し付けるとして批判されている。
Id at ___. 確かに私見では彼の作品は、企業や巨大組織を悪者であると決め付けた感じを抱かせるような気がしますが、如何でしょうか。
First Up-loaded on Jan. 25, 2007.
前掲「法と映画/TVのリアリティー」の項にて紹介したように、現実以上にリアリティーを持たせた映画には、製作者の意図を視聴者に容易に受け入れさせる虞が伴います。法曹映画に於いても同じことが言えるはずです。従って、視聴者としては、批判的な視座を失わないように留意することが必要かもしれません。
そのような批判的な視座を保つ為に役立つと思われるAsimow & Maderの指摘を以下で紹介しておきましょう。
多くの法廷映画(trial films)に於いては、被告人やヒガイシャに視聴者が感情移入するよう促していることが多い。
See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 20. 確かに私見でも「ジョン・グリシャムの研究」ページ等で以前から指摘して来たように、グリシャムのリーガル・スリラーは巨大組織・企業や政府のような存在が悪者で、個人は善玉という設定が多く、後者への感情移入を視聴者に促しているように思えますが、如何でしょうか。
なお、視聴者は批判精神を忘れるべきではないという問題については、Papkeも以下のように指摘しています。
文学、映画、そしてテレビといったポップ・カルチャーは、文化研究者たちの云うところの「naturalizing the text」という影響力を有している。それはすなわち、アメリカの読者や視聴者のほとんどが、ポップ・カルチャーの描く法廷を「当たり前」のものと捉えてしまうということである。大衆は、トライアルへの批判的な態度を有することなく読んだり観たりするのである。アメリカ人は法廷ドラマを抵抗なく受け入れ、倫理的な基準を補強し、場合によっては自らのアイデンティティさえもそこから形成するのである。
Papke, infra at 478.
アメリカ映画の特徴は「メロドラマ」性にあり、法律映画にもその特徴が見受けられるというAsimow & Maderの指摘も、法律映画の分析に有用だと思われるので、紹介しておきましょう。
See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 34-35.
依頼人が、相手方よりも弱い立場云々というAsimow & Maderの指摘は、当ウエブページの作者が嘗てから「ジョン・グリシャム」作品に関して指摘して来た特徴に附合するようですが、如何でしょうか?更に「エリン・ブロコビッチ」や「評決」等にもこれら特徴が附合する点は、当ウエブページの作者が拙書「アメリカ不法行為法」の318-20頁に於いても指摘して来た通りです。
なおAsimow & Maderは更に人種(主に黒人差別)問題に関するメロドラマを、「アンクル・トム的」と「反アンクル・トム的」の二つの伝統(the Tom and anti-Tom tradition)に大別されるとして以下のように論じています。
Id. at 35-37.
First Up-loaded on Nov. 28, 1999 revised on Jan. 19, 2005.
主要な法律学者の見解を研究してみると、ナラティヴ(物語的・説話的)な手法を過度に法律学に用いることに対しては、否定的である感触を受けます。
確かに、いわるゆ「活動家」と言われる人々や、その「シンパ」と呼ばれる人々の行動姿勢には、情に訴えてその主導する立場への支持を取り付けるべく盛り上げる(?!)、という傾向が見て取れます。
しかしそのような情に訴える姿勢は、冷静に科学をする姿勢を重んじる社会「科学」の一種である法学者には、受け入れられない面もあるようです。 -- 非常に興味深い視点ではないでしょうか。
以下、そのような批判的見解を、紹介してみましょう。
ナラトロジストは死刑を嫌う。死刑囚の痛みをナラティヴに語らせて、死刑執行を減らそうと主張する。
しかし、もし被告人に慈悲を求めた主張の機会を与えるならば、あの世に逝った被害者にも正義を求めた主張の機会を付与すべきではないか。 あたかもハムレットの父のように。 [評者注*]
[評者注*: 「復讐」と法との関係についてもポズナー判事は同書で言及しており、その中には『ハムレット』も出てきます。ちなみに読者もご存知の通り、ハムレットは亡き父の亡霊から叔父の犯罪を知らされ、復讐を依頼されるのです。]
ナラトロジストは、抑圧された人々の痛みを目立たせるために、女性や黒人などのマイノリティの人々の苦痛をナラティブに語らせるべきであると主張する。しかし、そのように情に訴えるやり方は、女性や黒人が理性的な議論を不得手として感情やレトリックばかりに走りがちであるというステレオタイプを助長し、所詮は不平屋・不満屋というゲットーに自らを閉じ込めてしまうことになってしまう。2.5億の人口を有するアメリカでは、この世で起こり得るあらゆる醜いことがどこかで生じてもおかしなことではない。かかる事態に対してヒステリーに反応するのではなく、理性的政策的かつシステマチックに応じるためには、その「頻度」を知る必要がある。そして頻度は、ナラティヴではなく、社会科学の[分析により決っせられるべき]範疇なのである。
POSNER, LAW AND LITERATURE , supra at 348-349 (訳は評者)(強調は付加).
文学から社会科学への劇的なクロスオーバーについて私は深い懐疑の念を抱く。文学の作者は、架空物語を書く際に真実を追う義務を負担していないのである。しかしそのような自由がある反面として支払わねばならない代償は、...架空物語が背景となる社会的事象の何らかの一般化...を表したものとは扱われない...点である。
比較すれば、社会科学により与えられる何百という説明の方が、文学を構成する劇的な事象を物語られるよりも遥かに信頼できるものである。
文学的演出は、人をして貧困の荒廃に対し敏感ならしめるような教えを付与するけれども、貧困が減っているのか増えているのか否かということは示さないのだ。
事前に[決められた]何らかの視点を証明しようとして事前にパッケージ化された社会科学的データに対しては、確かに我々は懐疑的であり、それは正しいことである。 ....。 [しかしそれと比べても]我々は、同じミッションを有するけれども同じリサーチ規約に服さないような文学的作品に対しては、更なる懐疑を示すべきである。
社会科学としての文学の危険性は深いものがある。
オーウエルは宗教と資本主義との双方に対する嫌悪を隠さなかった...。 ...。 totalitarian(全体主義的)体制への甚大な嫌悪と民主的社会主義への嗜好...。以下のような疑問が残る: すなわち、その[民主社会主義]制度(ここでは生産手段としての共同所有、あるいは少なくとも産業政策に対する過剰な政府による計画とコントロールと理解されるもの)の方が、分散化した市場主義という代替案に比較して全体として望ましいと何故言えるのか?という疑問である。
社会現象を一般化・抽象化するという意味に於いては、社会現象を文学によって説明しようとするオーウエンの試みは説得力を欠く。文学的に個人を描いても、例えば市場に於ける需要と供給の変化といった社会現象の一般化させた説明に役立たないからである。
しかしながら、totalitarianな体制を描く『1984年』は[ある程度の]成功をしている。成功の理由は、totalitarianな体制では市場の需要供給といった一般化した変化よりも、むしろ、政治体制をコントロールするに至った独裁者という個人が如何に体制のはたらきを形作ったかが問題になるからである。
すなわち独裁者がどのように行動するか云々という問題は、合理的な人が如何に行動するかを前提にする経済学的な分析に適しない性格を有する。ヒトラーが体制を奪取したのも、同時代人が経験上、まさかあのような極端な政治家が政治的活動の中で生き残るとは思わなかったためにうっかり支持票を入れてしまったことに起因している。そのような極端な、合理的な行動を前提にできない行動を理解する際には、文学的想像力の方が定量的な社会科学よりも一定の有利さを持っている。
もっともtotalitarianな体制が長くは継続しないという点を、オーウエルはとらえていなかった。現実には、西側陣営政府民主主義は長期の戦争を支持しなくなって来ているし、スターリンによる東側政府もベルリンの壁も、結局はtotalitarian体制が軍隊や警察、生活を経済的に支え切れなくなって崩壊したのである。
『1984年』に於いてオーウエルは、国家が情報や工学技術を独り占めすると主張する。しかし、安価で極小化された工学技術によるコミュニケーションの向上は、中央[政権]の権力を支えるよりも、むしろ、その根幹を危うくすることは、インターネットが出現する前から明らかになっていたのである。『1984年』では超監視社会が力の無い個人を繰り返しプロパガンダで責め立てる様が表されているけれども、逆に、自由欧州ラジオ(radio free Europe)とか、地下新聞とか、ウエブなどの反体制な力については描いていないのである。
『1984年』は読み継がれるだろうけれども、totalitarianな体制をもはや許容しない現代西側陣営社会の現状に照らしてみれば、それは歴史的な意味で読まれるに過ぎず、我々の将来を占う意味を有してはいない。
出典: Richard A. Epstein, Does Literature Work As Social Science? The Case of George Orwell, 73 U. COLO. L. REV. 987, 991 992, 995-96, 1002-04, 1008-1011 (2002) (訳は評者)(下線付加).
小説や映画等の大衆文芸に於いて、法律や法廷、法曹、等を扱うものが多く見受けられます。そして、「法と文学」のサブ・ジャンルとしても、大衆文芸と法との関係を論じるものがアメリカにはあります。
例えば、大衆文芸の中に写る法曹像や実務慣行等をとらえて、それが大衆や実務、法曹等に及ぼす影響等や、逆に、実態が文芸に及ぼす影響を、云々する等というものです。
「法曹論」(Legal Profession)あるいは「法曹倫理」(Professional Responsibility)に関する法律分野からのアプローチも多いようです。
以下、少しずつ紹介して行きましょう。
Fisrt Up-Loaded on Jan. 24, 2007.
狭義のポピュラーカルチャーとは、大量の視聴者のエンターテインメントを意図して商業的に製作された著作を包含する。
これに比べてハイ・カルチャーとは、大衆の視聴者ではなくエリートの消費用に製作されマーケティングされた著作を示す。
ポピュラー・カルチャーとして生じた多くの著作は、後にハイ・カルチャーの地位を得る。たとえばディケンズやシャークスピアのように。
See MICHAEL ASIMOW & SHANNON MADER, LAW AND POPULAR CULTURE: A COURSE BOOK 4 (2004). なおシェークスピアのように云々という指摘は、 POSNER, LAW AND LITERATURE, infra, at ___にも見られます。
Fisrt Up-Loaded on Dec. 8, 2006.
「法と文学」運動は、シェークスピアやメルヴィルやディケンズ等の、いわゆる「ハイ・カルチャー」(high culture)に関心を寄せることに対して、「法とポピュラーカルチャー」は映画やテレビや、ジョン・グリシャムやスコット・トゥーローのようなベスト・セラーのリーガル・スリラーに言及する点が、両者の相違である。
尤も「法とポピュラーカルチャー」研究は「法と文学」運動に追従している。即ち人々の生活に対する劇的な効果を説明し、法の倫理的側面を実地教授(demonstrate)する為に、ポピュラーカルチャーの文脈が使用されるのである。
See Douglas J. Goodman, Approaches to Law and popular Culture, 31 LAW & SOC. INQUIRY 757, 760 (2006).
「literature」という文言な、そこに属する作品が他の書き物よりも秀逸な質を有していることを含意する。尤も「literature」という文言は、ドラマや小説やshort storyのような主要なフィクションの分類に属する作品も通常は包含する。
Robert F. Blomquist, Book Review [of THE CIVIL ACTION by JONATHAN HARR (1995, Random House)]: Bottomless Pit: Toxic Trial, The American Legal Profession, and Popular Culture Perceptions of the Law, 81 CORNELL L. REV. 953, 984 (1996).
過去25年の間に、事実を織り交ぜたフィクションである「faction」というジャンルが出現。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』やノーマン・メイラーの『THE ARMIES OF THE NIGHT』等である。『シビル・アクション』はそのジャンルに属する作品である。
Blomquist, supra at 984.
「ポピュラーカルチャー」の目的はエンターテインメントにあるので、大衆を啓蒙することは副次的作用(side effects)に過ぎない。
Goodman, supra, at 763, n.10.
映画製作者は、司法制度を含む現実を常に歪める(always distort reality)。劇的、商業的、または思想的な目的ゆえに歪めるのである。
ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 7.
しかしポピュラーカルチャーの方が文学よりも、法の理解に対してより広範囲な効果を与える。ディケンズの小説からChancery proceedingを知るよりも[テレビ・ドラマから]Miranda rightを知る人の方が断然多いのだから。
ポピュラーカルチャーが誤った法の理解を伝えたならば、人々の行動にまで影響を与えると推察される。それは、「Tarasoff v. Regents of the Universiy of California」判例の実際の判示内容と同じ程度に、それをセラピスト達が如何に捉えたかということが重要であることを考えれば判る。不法行為の逸話やロイヤー・ジョークが司法改革や司法制度への変化の要望の糧になっていると指摘されているのである。
Goodman, supra, at 762.
映画等のポピュラーカルチャーは現実を歪めるにも拘わらず、そこから学ぶものがある。たとえば映画が弁護士を欲深で非正直に表現している場合には、多くの人々がその見解を共有していることの証となるのである。
ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 7.
なお評者の私見では、たとえばFOXテレビの心理カウンセラーが主人公の番組「Huff」(ハフ)も「Tarasoff」事件の影響を受けているかもしれません。--- カウンセリング中に主人公の目の前でピストル自殺した両親が主人公を凾ニする不法行為訴訟を提起するというエピソードが冒頭から展開されるからです。
Fisrt Up-Loaded on May 16, 2000; 1st Proof Read on May 16, 2000; 2d Proof on Jan. 5, 2007.
法とポピュラー・カルチャーについての、テキサス大学のシンポジウム論考から。
出典: Roy M. Mersky, Law and Popular Culture: Law and Popular Culture in the Film Collection in at the Tarlton Law Library, 22 LEGAL. STUD. FORUM 109 (1998).
First Up-loaded on Apr. 19, 2000. Revised on Feb. 23, 2003
出典: Adrienne Drell, Muder, They Write, ABA J., Vol. 80, June 1994, at 46.
First Up-loaded on Nov. 28, 1999.
法律に関する大衆文芸には、大衆の抱く法への理解を映し出す鏡であるというよりは、むしろ大衆のイメージを形成する教師であるという役割がある。
法に関する今日のポピュラー小説に支配的はムードは、cynicism(皮肉)に接したrealismである。
...。
グリシャムなどのアメリカ現代小説における法曹の描かれ方は、ネガティヴであるという点において共通する。法曹が大衆小説における格好の攻撃の的になる理由は、おそらく以下にあると思われる。
アメリカ法曹の富と数の多さ;
正義が行われない有名な事例において法曹が果たしてきた役割; および,
犯罪者や悪人を代理する法曹の役割を素人には理解できないこと。
アメリカ現代小説における法曹のバッシングは、ロイヤー・ジョークと同ジャンルに属し、ロイヤー・ジョークと共に発展している。
POSNER, LAW AND LITERATURE, supra at 29, 39 (訳は評者)(強調は付加). なおロイヤー・ジョークについては、筆者の「ロイヤー・ジョーク」のページを参照下さい。R. Posnerの指摘するように、確かにたとえばグリシャム作品(e.g.,「レインメーカー」でマット・デイモン演じる主人公の「僕」)やトゥーロー作品(e.g.,「推定無罪」でハリソン・フォード演じる検察補サビッチ)の法曹は、現実的であり、かつ、皮肉が込められた描かれ方をされていると感じさせます。
法律の教育を受けてない普通の人々の持つ「大衆的正義」("popular justice")は、「人気コンテスト」("popularity contests")へと堕落して行く傾向がある。
RICHARD A. POSNER, AN AFFAIR OF STATE: THE INVESTIGATION; IMPEACHMENT, AND TRIAL OF PRESIDENT CLINTON 42 (1999) (訳は評者).
Commenced construction on June 8, 2000; Latest additional construction on Jan. 25, 2007; 1st Proof Read on June 11, 2000; 2d Proof on Jan. 5, 2007.
法廷映画は、「trial films」とか「courtroom films」と呼ばれます。See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 21. その特徴は、視聴者をあたかも紛争解決手続上の実際の決定者(陪審ボックス内の陪審員:actual decision makers - in the jury box)の立場に置くことです。Id. そのような法廷映画の分析を、以下紹介してみましょう。
以下の出典: David Ray Papke, Essay: Conventional Wisdom: The Amercian Courtroom Trial in Popular Culture, 82 MARQUETTE L. REV. 471 (1999).
ところで法廷というものが、かつては神殿を倣って作られたり、あるいは最近では企業の執務室のように合理的なイメージで作られたりするのは、文化の影響であるという指摘もあります。つまり前者は権威の象徴であり、後者は効率性の象徴であるという訳です。See OSCAR G. CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL: DISPUTING SYSTEM IN CROSS-CULTURAL CONTEXT ___ (2005, New York University Press). ここからは評者の私見ですが、この「法と文化」からの指摘によれば、権威的に描かれる法廷も、合理的な実際の法廷も、どちらも真実であるということになる気がしますが、如何でしょうか。 なお実際の現実以上にリアリティを出す為の演出としての映像表現技法については、「法と文化」のページ内の「法制度と儀式」の項を参照下さい。
ここからは評者の私見ですが、日本でもたとえば木村拓哉さんが演じる検察官の久利生公平(2001年、フジテレビ「HERO(ヒーロー)」)に憧れて法曹を目指す気になった若者も居るのではないでしょうか? アメリカでも嘗ては「ペリー・メイスン」や「アラバマ物語」を観て弁護士を目指す気になった人々が多いと言われていますので。
グリシャム作『評決のとき』については、評者のウエブサイト『評決のとき』のページも参照下さい。
なお判事が「ベンチ」と呼ばれる一番高い席に座っているのは、その正義の正等性を示す為であると、「法と文化」の研究が指摘しているのは前掲の通りです。See CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL, supra at ___. 従って評者の私見では、ポピュラー・カルチャーに於いて判事がそのように描かれること自体には、問題がないようにも思われます。
視聴者があたかも陪審員であるかのごとく感覚を抱かせようとする指摘については、前掲ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 21でも指摘されています。
クローズアップという映画の技法が感情と緊張感の高まりを示すという分析については、前掲「映像技法の意味」の項を参照下さい。
ポピュラーカルチャーが法意識や法の適用に影響を与えているという指摘については、前掲「法と文化」のページ内の「法と文化研究の重要性」の項等も参照下さい。
この点については評者の私見では必ずしもそうではないと思います。たとえばジョン・トラボルタ主演の「シビル・アクション」(A Civil Action)や、トム・ハンクス主演の「虚栄のかがり火」(The Bonfire of Vanities)等は、司法制度が必ずしも正義を為し得ない様を描いています。更にアメリカ文芸の古典的な作品としてグレゴリー・ペック主演の「アラバマ物語」も、やはり冤罪の黒人被告人が陪審裁判で有罪にされてしまうのですから。
なおAsimow & Naderは大衆法文化系映画の特徴の一つとして、以下のような指摘を表しています。「多くの映画に於いて法は遵守されるけれども、結果は不正義に終わる。ときには正義が達成されるけれども法に拠らないこともある」と。ASIMOW & NADER, LAW AND POLPULAR CULTURE, infra, at 25. 確かにたとえば「アラバマ物語」に於けるBooの扱いや、「ダーティー・ハリー」の結末、更にはグリシャムの諸作品等は、法に拠らない正義、あるいは法による正義への不信、を表していると言えるのではないでしょうか。
この点も評者の私見は異なります。
この点も評者の私見は異なります。もっとも巨大企業が悪で原告側小規模弁護士が正義であるというステレオタイプがアメリカ大衆に広く存在することは評者も感じています。--企業側弁護士が正義であると描いた作品は全く知りませんが、その逆は余りある程に存在します。たとえばジュリア・ロバーツ主演の「エリン・ブロコビッチ」や、ラッセル・クロー&アル・パチーノの「インサイダー」、グリシャムの諸作品、更に古くはポール・ニューマン主演の「評決」(The Verdict)やジーン・ハックマンの「訴訟」(Class Action)等です。
___________________.
Asimow & Maderは陪審裁判の映画の特徴を以下のように分析しています。
陪審裁判の作品は、陪審が如何なる評決を下すのかが最後まで不明である点に於いて、本来的にサスペンスになっている。言わば視聴者は13人目の陪審員なのである。
See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 137-38.
Revised on Apr. 26, 2000
(出典: David Ray Papke, The Amercian Courtroom Trial: Pop Culture, Courthouse Realities, and the Dream World of Justice, 40 SOUTH TEXAS LAW REVIEW 919 (1999).)
「法廷もの」ドラマはアメリカによく見られるが、それは現実の法廷をきちんと表していない、という批判も指摘ある。以下は、ドラマに見られる虚構と、現実の法廷との主な相違点である。
ポップ・カルチャーな法廷 | 本当の法廷 |
ドラマにおいて南部で開催される法廷は常に、冬やエアコン付きの部屋ではない。たとえばジョン・グリシャムの『評決のとき』のように、常に汗をかいているのである。 Papke at 921. | |
たとえば「アリーmyラブ」のようなゴールデン・タイム番組では、いまだに法廷を伝統的で古い形式で表している。 Papke at 922. | |
女性判事や黒人判事が、現実の法廷におけるよりも多数出てくる。しかしおかげで、実際の法廷で彼らマイノリティが判事になることの抵抗が少なくなっているようである。 Papke at 922. | |
各陪審員の性格も多くの場合は十分堀り下げられることはない。[評者注:但、グリシャムの『The Runaway Jury』などは例外かもしれませんね。] Papke at 922. | |
逆に弁護士は、もっとも掘り下げられるキャラクターである。以前は刑事弁護士が対象となることが多かったけれども、1980年代に大ヒットした映画「評決」(The Verdict)やテレビ・シリーズ「L.A. Law」を受けて民事の訴訟弁護士も対象になってきている。 Papke
at 923. なおドラマにおける弁護士は(実際にそう期待されている通り)、依頼人の主張を支持・擁護するように描かれる。たとえば映画「フィラデルフィア」におけてデンンゼル・ワシントン演じる弁護士が抵抗感を抱きながらも次第にゲイの依頼人のために尽力するように、である。 ところで第二次世界大戦後、ヒーローになるのは刑事弁護士よりも検察官の方が多くなってきている。 |
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刑事事件でも民事でも、法廷ドラマには常に次のシーンが現れれる。原告(検察)側と被告側の冒頭陳述、証人尋問と反対尋問、原告(検察)側と被告側の最終陳述、そして陪審評決である。ドラマにおいてこれらのシーンが欠けているものがどれだけあるだろうか。これらのシーンはマストなのである。 Papke at 924. | |
法廷ドラマに欠けているのは、陪審選任(voir dire)である[評者注: もっともJOHN GRISHAM 『THE RUNNAWAY JURY』ではこの辺も詳細に記述されている] 。 Papke at 924. | |
さらにドラマに欠けているのは、法廷の準備作業である。実務では準備こそが重要であることを、デビッド・ドレイヤー判事は次のように云っている。「事件の勝敗は普通この時点[の公判集中審理]において決するにもかかわらず、勝敗が法廷で始めて決するものだと聴衆は思い込まされてしまうのである。」 Papke at 924. | |
ドラマでは、原告(検察)側も被告側も驚くべき重要証拠を提出するということになっている。詳言席に座る証人の偽証が法廷で明らかになったり、観念して真犯人を明かしたり自白したりするのである。 Papke
at 925. ドラマでは、尋問に対する異議を巡って、判事が両弁護士を判事席に招き寄せるシーンが出てくる。 さらにドラマでは、最終陳述の後にシーンは変わり(TVではここでコマーシャルが入り)、陪審は法廷に戻って陪審長がミステリアスな紙片を裁判長に渡し、判事はそれ一瞥すると陪審長に戻す。陪審長はのどの調子を整えてその紙片を大声で読み上げる。法廷に居る人々は興奮し、互いに抱き合い、場合によっては判事が静粛を求めて木槌の最後にたたくのである。 Papke at 925-26. |
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ほとんどの事件がトライアルまで到達しない、という事実もドラマは紹介しない。 Papke at 926. | |
ドラマでは典型的な、パンチの効いた、挑発的な冒頭陳述は、実務では遭遇できない。現実世界における弁護士は、非常に「経済的」に振る舞うのである。普通の冒頭陳述では、事実を一つか二つ指摘した後、法的な争点をいくつか触れるのみであり、短く済ます傾向にある。 Papke at 926-27. | |
証拠の提出と証言尋問、反対尋問においても、実務はドラマほどにはドラマチックではない。刑事弁護士などは沢山の事件を抱え、予算も限られているので、[ドラマチックな証拠を見つけ出すために必要な] 私立探偵への依頼もままならない。 Papke at 927. | |
判事席に呼び寄せての判事と弁護士による相談(side-bar conferences)も実務では稀である。重要な証拠上の問題は、普通、プリ・トライアル会議で決着され、さらに判事は証拠の問題や手続上の問題ゆえに訴訟の進行が妨げられるの嫌う。 Papke at 927. | |
実務では、判事と弁護士との会議がチェインバーにおいて行われるとき、法曹は非常にビジネス・ライクになり、党派的な態度を捨て去る。法廷では互いに傷付け合うように振る舞うけれども、公ではない会議の席では感情なく淡々と話しをする。ところがドラマでは、公ではない会議の席においてさえも、法曹はあたかも法廷に居るときのようにargueし合うのである。 Papke at 927. | |
実際のトライアルでは、弁護士が異議を雨あられと申し立てることはない。陪審は進行をしばしば妨げられることを嫌い、あまり弁護しが異議を申し立てつづけると何かを隠しているのではないか、と疑い出すからである。 Papke at 927-28. | |
ドラマではほぼ全ての証人が重要なストーリーを証言するのだけれども、実務の証人は忘れやすく、つまらなく、さらに準備不足なのである。 Papke at 928. | |
実務では多くの被告人が証人席に座らない。多くの場合、被告人は貧乏で、教育も不十分で、注意も散漫である。したがって、証人にならない方が懸命だという訳である。 被告人を証人席に座らせない方が良いということは、ウイリアム・ケベディ・スミスのレイプ容疑事件と、マイク・タイソンのレイプ事件を比較すれば明白である。前者では、身なりのすっきりして注意力のあるケネディ自身が証言席に座り、彼が誰かをレイプすることなどありえないということを陪審に説得できた。しかし後者では、タイソン自身を証人席に座らせるという失策を弁護士がしたため、野卑で性差別主義的で教養のないタイソンの姿が陪審に示され、誰かをレイプしたに違いないと確信させることになった。 Papke at 928. |
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実務では、最終陳述を聞ける時間もも限定されている。インディアナ州では、その時間が20分以内と決められている。そしてその内容も、ドラマのように感動を呼び起こすようなものではない。弁護士は、普通、良く云っても並みのスピーカーに過ぎないし、多くの場合リーガル・パッドから目を離すことなくしゃべるだけなのである。 Papke at 928-29. | |
アレドンド判事は、次のように云っている。「陪審裁判を采配して20年を越えるが、現実世界では何が起こっているのかについて想像できるようなハリウッドの創作的でイマジネーションあふれる脚本家はいない、ということを思い知った」と。 Papke at 927. | |
「ペリー・メイソン」のテレビシリーズが、現実世界における依頼人に非現実的な期待を抱かせてしまう、と嘆く法廷弁護士が居た、とも指摘されている。 Papke at 930. | |
実際の法廷では、無関係な証言や遅延なども日常茶飯事で、ばらばらな中から一環したストーリーを組み立てようとして陪審もジャーナリストも努力するのだが、それでもしばしば事実は依然不明ということがあるのである。 Papke at 931. | |
実際の法廷との相違があるとはいえ、ドラマは社会全体が法というものに対するある程度の概念を理解するのに役立っている。法廷ドラマは現実を再現しないけれども、rule of lawの原則において受け入れられるヴァージョンとしての現実をポートレートし、シンボライズするのである。アメリカ人は特に順法精神が高いとは云えないかもしれないけれども、自身はrule of lawに従っているのだと自負したがるところがある。法は、日常直面するところのものとは異なるべきパラダイスであるという性格を有する。そして法廷ドラマは、法に対する大衆の理解に力強く貢献するばかりではなく、正義の夢の世界へと私達を連れて行ってくれるのである Papke at 931-32. |
(未校閲)
First Up-loaded on Nov. 24, 1999
「法と文学」の研究資料 Bibliography
アメリカの法律大学院(ロースクール)の紀要論文集として
シンポジウム
アメリカの著書
日本の著作