First Up-loaded on Oct. 10, 2006.
Susumu Hirano; Professor, Faculty of Policy Studies, Chuo
University (Tokyo, JAPAN); Member of the New York State Bar (The United
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【未校閲版】without proof
事故が発生すると、人は民事不法行為賠償責任請求訴訟を提起する。そのような提訴に至る動機は、単に金銭を得たいという理由に止まらず、いや寧ろそれ以上の理由として、被告への報復等を求めているように見受けられる場合が散見される。
そのように民事賠償請求訴訟を通じて、πが金銭を得たいという理由以外に求めている「報復等」とは一体何であろうか?
この疑問に答える為に、法律学の最先進国たるアメリカ法学上の見解・分析を、以下のように探ってみた。
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出典:
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主な目次:
復讐、「血の宿恨(しゅっこん)」
金銭賠償が原則である理由
「謝罪」の意義
「法と経済学」的考察
「法と文化人類学」的考察
「為(な)し手は、為しただけのことを、報いとしてその身に受ける」(古代ギリシャ人の「復讐=正義」という正義観)
Daniel Shumanは、損失の金銭的価値の単なる補償を超えて、被害者にとっては被害のvindication(復讐、報復、懲罰)を求める必要性(to seek vindication for their injury)にこそ不法行為制度の主な根源が存在していると指摘している。 Taft, On Bended Knee, at 610.
初期のコモンロー不法行為制度は、「血の宿恨」の主要で有効な代替物(a substitute)だった。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 40.
嘗(かつ)て抑圧されていた南アフリカの現判事は、謝罪による免責の論点に関するパネル・ディスカッションに於いて、敵を跪かせたい(have his enemy “on bended knee”)と述べていた。敵をやりこめて屈辱をその目にすること(witnessing his enemy’s humiliation)を望み、それが苦痛を和らげる(alleviate his suffering)と指摘している。 Taft, On Bended Knee, at 603.
敵をやり込めて屈辱を目にしたい、跪かせせたいという願望、即ち恥を与える制裁(shaming sanctions)は、応報的渇望を充足させる(“satisfy … ’retributive” thirst”)。人は、屈辱の儀式を通じて応報の渇望を充足しようという願望に、特に屈し易いのかもしれない(Men may be particularly susceptible to the desire to satisfy this thirst for retribution through rituals of humiliation)。何故なら人は、敗北宣言としての謝罪の象徴的な力(the symbolic power of apology, especially as … an advertisement of defeat)に、同調するからである。 Taft, On Bended Knee, at 611-12.
現代不法行為法は、復讐志向を緩和しようと試みている。[しかし]自然災害等により誰でもが曝され得る苦難と、不法行為の結果としての苦痛とは、異なるものである。後者は損失と他人の不法な行為との関係(relationship of their loss to another’s wrongful act)が存在する為に、不法行為賠償責任請求者の悲しみが大きく複雑な感情(powerful and complex emotions)となるのである。 Taft, On Bended Knee, at 612.
不法行為法の存在理由は、その修復的機能にも求められるべきである。「抑止」と「賠償」という不法行為法の主な論題は、被害の「予防」と「修復」を扱うから、「therapeutic jurisprudence」(治療学的法学)の適用が豊富な分野である。治療学的法学とは、[ある]法律が治療的結果を生むか反治療的結果になるかという、therapeutic agent(治療力、治癒的作用物)としての法律を精査する分野である。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 41 & n.8.
カガイシャへの制裁は、ヒガイシャにとっての復讐の喜び(a pleasure of vengeance)を自然と生む。原告の利得が被告から金銭を奪うことから生じる(that the benefit derived by the plaintiff flows from the toll taken of the defendant)点にこそ、不法行為法の修復的な効果(restorative impact)があるのかもしれない。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 43.
David G. Owenも不法行為法制度自体が治癒的であると指摘する。不法行為法上の損害賠償は“私的な復習”(a private revenge)であり、被害者の「感情的均衡」(“emotional equilibrium”)を修復させ、社会的価値の補強等の重要な諸価値を推進すると指摘している。 / 不法行為法は、被害者の重要な感情的必要性に応じている(respond to significant emotional needs of victims)とOwenは指摘している。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 44.
行動科学(human behavior)の論者は、不法行為者(a wrongdoer)を制裁することが「被害者の怒りの感情を和らげがちである、制裁を課すことで事件が終わったと看做しがちである」と指摘している。第三者事故補償制度から補償金を得たにもかかわらずπが訴訟を追行する理由は、司法制度が提供する威厳(後掲「手続的正義」云々の項参照)と、尊敬と、権能付与(後掲「強制的権能」云々の次項参照)の必要性と、公正さの思想ゆえである(because of a “need for dignity, respect, empowerment, and an ideology of fairness that a system of justice provides”)、と指摘する論者もいる。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 50-51.
不法行為を定義付ける要素である過誤(fault)も、人の外部に存在する正義に帰するものではなく、むしろ人間の心理的反応にこそ帰するものかもしれない。不法を犯された人はresentment(怨恨、立腹)を感じ、被害者に同情する社会は被害者と同化する。被害者と社会のresentmentは民事罰(the civil sanction)であるreparation(修復、回復、賠償)によってappeased(なだまる、静まる、気が済む)のである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 51.
以上の心理的な賠償目的は、πに被害を惹き起こした責任(responsibility)のない第三者が事故補償的に金銭を支払っても満たされない。対する不法行為制度は、たとえ損失分散の原理に満ちているとはいえ、責任の決定(a determination of responsibility)を伴う[点に於いて被害者・社会の心理的要請に応えている]のである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 51.
加害者と被害者との不均衡な関係(次々段落参照)を形成し直す為の司法制度の矯正的な権能(the coercive power of the judicial system to reshape the power imbalance in their relationship)をπは[提訴の重要性として]挙げている。(empowerment theory) Shuman, The Psychology of Compensation, at 56.
不法を行ったと思われる者との間で紛争が生じ、その者が不法行為を認めない場合には、その者を公開の法廷に召喚する権利があり、かつその公開の場でその者が悪者の烙印を押され得る(may be branded as in the wrong)ことを知ることは、大きな充足(a great satisfaction)であり得ると、Atiyahは指摘する。(empowerment theory) Shuman, The Psychology of Compensation, at 56 & n.87 (P.S. Atiyah, Accidents, Compensation and the Law 553 (3d ed. 1980)を引用しながら指摘).
社会心理学に於ける「衡平理論」(equity theory)は、そもそも衡平な関係を、ある人の支出と収入の率が他者の支出/収入率と衡平な場合であると定義する。人がある活動に関与して、不衡平な関係や不衡平な危害の分配を惹き起こす場合に被害(harm)が生じる。原因に対するある人の責任意識にとって不釣合いな損失を経験した場合その人は「嫌悪の感情的状態」を経験している(When someone experiences a loss that is disproportionate to their perception of their responsibility for its causation, they experience an “aversive emotional state.”)。 被害者との関係に於いて不法行為者が衡平を修復(to restore equity)できる手段は、被害者へ賠償を支払うこと(making compensation to him)である。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 57.
equity theoryでは、不法行為の被害が加害者と被害者の関係に不均衡(imbalance)を惹き起こしたと捉える。equity theoryは両者の相互関係から[事象を]捉えるのである。従って第三者が[事故補償制度によって]事故補償を支払っても不均衡は解消しない。均衡を修復する責任がある不法行為者が個人的に取り組まない限り、被害の結果は継続するのである。社会心理学者の[実証]実験は、第三者が補償を支払うよりも加害者が支払う方が被害者は最も充足を得ることを明らかにしている。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 57.
ヒガイシャは、自尊心(self-esteem)や自己観念(self-concept)を失い、怒り、攻撃、不信、罪悪感、および苦痛を感じている。即ちヒガイシャは弱者となり傷つき易いのである。そこに於いて謝罪は、カガイシャとヒガイシャの立場を逆転させる(tables are turned)。カガイシャの謝罪を受容して赦しを与えるか否かはヒガイシャのみが有する能力となるので、カガイシャはヒガイシャの為すがまま(at the mercy of)になるからである。このようにして謝罪は倫理的な均衡(moral balance)を修復(restore)させるのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 843.
映画「ダーティハリー」
参加(participation)、威厳(dignity)、および信頼(trust)という諸要請に応じている。参加に関しては、不法行為訴訟制度で用いられるadversary systemが自己の主張・立証をする機会(the opportunity to state one’s case)と同時に、結果に影響を与える機会(the opportunity to influence the outcome)とをπに付与することにより、参加の機会を極大化する。そのような機会を付与しない第三者による事故補償制度よりも優れている。 / 「威厳」に関してもこれを高めるように意図されている。紛争に関わる個人の重要性と問題の重大性を裁判所が受容しているとπが感受すること(feel that the court accords importance to the persons and subject matter involved in the dispute)により、πの威厳が高められるからである。 / 「信頼」に関しても、充足は信頼と結びついている。人々は、信頼する者が偏向せずに十分な時間を掛けた審理の上での決定をより受容する傾向がある。特定利益に関係しない陪審を用いた不法行為制度と、その審理過程は、かかる信頼を促進する。 / 複数の「empowerment theory」(権能理論)が示唆するように、人々は金銭よりも賠償の決定を求めている(people seek more from compensation decisions than money itself)。不法行為訴訟は被害者πを修復させる上で、結果に於いてπの権利を実現すること(vindicate)から重要であるばかりか、その過程自身が治療的であることからも重要かもしれない。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 63-64.
即ち不法行為制度は、修復の最善策として、社会が紛争に関心を寄せているというメッセージを伝える威厳のある手続に於いて、信頼された判決決定者が責任の判決を下し、πと凾フ権能の不均衡を再形成することを助ける。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 74.
人々は真摯に扱われることを知りたいのである(People want to know that they are taken seriously.)。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 75. --- [上段の手続的正義は真摯に扱われる望みを適えている。]
謝罪は、思いやっている(caring)というメッセージを伝える。
勿論損失を金銭で置き換えることはできない(incommensurable)。しかし、金銭は、我々の文化に於いて非常に重要であるから、金銭賠償を付与することによって被害者の権利と損失を重要視している(take your rights and loss seriously)ことを表す。重要視していることを表す為にこそ金銭を支払うのであって、我々の文化に於いてはそれがとても重要だからこそ金銭を償いに用いるのである。 Pryor, Rehabilitating Tort Compensation, at 688-89.
重要な何かを一方当事者が諦めて、これを他方当事者が受領することにより、違反者の過誤を公に認知することを象徴(symbolize public recognition of the transgressor’s fault)している。 Pryor, Rehabilitating Tort Compensation, at 688.
金銭は重要性の象徴として意義があるばかりか、事故後の人生の修復と再建を助ける為にも意義がある。 Pryor, Rehabilitating Tort Compensation, at 689.
謝罪を「法と経済学」的に、「取引交換」(bargained-for exchange)であると観るモデルに於いては、加害者が責任を認めて(the offender taking responsibility)、それとの交換取引として、被害者が赦しを与える(the victim offering forgiveness)と捉える。即ち謝罪は交換物(the object of the exchange)であると捉えるのである。しかし謝罪は、両当事者間の矯正的な儀式として、社会的倫理的なモデルを活用した適切な文脈で把握しなければならない。 Pavlick, Apology and Mediation, at 842 n.71.
謝罪は責任を認める手段の一つであり、修復的過程の重要な構成要素である。被害者へ敬意を表す(showing of respect)ことにより、被害を生じさせる行為の侮辱(indignity)へ対処するものである。不法行為法は謝罪を奨励すべきで、少なくとも萎縮させるべきではない。 / 医師が過誤の責任を直ぐに認めれば、それだけ訴訟を提起されない。責任の認容が修復的利益(restorative benefits)を被害者に与えるからである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 68.
日本では、謝罪のような社会的修復的機能の利用可能性が多くの場合、公式な法的制裁を不要にしている。Shuman, The Psychology of Compensation, at 70 (をHiroshi Wagatsuma & Arthur Rosett, The Implications of Apology: Law and Culture in Japan and the United States, 20 Law & Soc’y Rev. 461, 464 (1986)出典根拠としながら).
協調的人間関係の修復(restoration of a harmonious human relationship)は、人が自己奉仕的傾向や自己温存的傾向(self-serving and self-preserving tendencies)を捨て去ってこそ達成できる。従って力の不均衡(power imbalance)を矯正する為には、まずカガイシャが自らの行為を痛みを伴いつつ認め(acknowledge/admit)なければならない。カガイシャはwrongを認めることによって自身の行為の責任を取り始める。カガイシャの責任は増して行き、恥も増して行き、ヒガイシャが経験したのと同じ自尊心の喪失も経験することになる。これに反比例してヒガイシャの責任負担は減少し、自尊心とアイデンテティーが修復し始める。力の均衡が徐々に転嫁し始めるのである。即ち謝罪は力の均衡の一種なのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 843.
責任を認めた次に、カガイシャは、後悔・良心の呵責を表明(express sorrow or regret)しなければならない。後悔・良心の呵責の要素はヒガイシャへの感情移入として表され、これによりカガイシャに壊れた関係への不安を感じさせ、ヒガイシャを傷つけたことの罪悪感と、倫理的規範を犯した恥と、自尊心の喪失とを感じさせる。ヒガイシャに害を被らせたことへの後悔・良心の呵責は、ヒガイシャの苦痛を消し去り終わりにすることを助ける。Pavlick, Apology and Mediation, at 843-44.
ヒガイシャ側も赦し(forgiveness)を通じて、カガイシャに対する矯正的怒りの感情を解除(release ... corrective anger)できる。赦しは、倫理的な危害が加わわらさえられたという憤慨感も失くすことができる。即ち赦しは、過去の出来事の呪縛からヒガイシャを開放し、人生を前に進めさせる。更に赦しは、カガイシャも罪悪感と恥から解き放つ。怒りと罪悪感と恥とが最早、ヒガイシャとカガイシャを隔てなくなり、調和の促すのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 844.
謝罪とは、加害者が @加害の責任を認め(acknowledge responsibility for an offense)、かつ A被害者に対し後悔または良心の呵責を表す(express regret or remorse)ことである。 Taft, On Bended Knee, at 604; Pavlick, Apology and Mediation, at 832 n. 8.
語源はギリシャ語の「apologia」であり、人の行為を防禦する声明または主張という意味であった。そもそも行為の言い訳(an excuse)または正当化(a justification)として示されるものだったのであり、そこには罪を認めたり良心の呵責の表明が含まれていなかった。 (an excuseとは望ましくない出来事に対する責任を拒絶するように求めることであり、a justificationとは責任を受容するもののそれが積極的な見方となるように変えるよう試みることである。) しかし結局「authentic apology(真正な謝罪)」は、後悔の表明を伴う悪の自認(admission...of a wrong, accompanied by an expression of regret)であると定義されるに至ったのである。 / 「authentic apology」の基本的要件は、@他人に課した危害に対して後悔(being sorry)し、かつ、Aそのように言うこと(saying so)、である。つまり自認した不法行為に対して後悔を表わすこと(expressing sorry ... for admitted wrongdoing)なのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 834-35 & n.19.
謝罪には、謝罪者にとって苦痛が生じる(causes pain)という懲罰的要素(punitive element)が伴うとMillerは指摘している。謝罪は偽り易いから誠実さを担保する為の対策が必要であり、たとえば60頭の羊を支払うといった苦痛がこの対策となるのである。更に謝罪には、Thomas Aquinasが「加害への補償」(“compensation for injury inflicted”)と表現した、充足の要素(an element of satisfaction)が伴うとMillerは指摘している。充足とは、即ち、謝罪者に苦痛を与えるという費用なのである(The pain it costs the apologizer to give it.)。 Taft, On Bended Knee, at 611.
「謝罪」(apology)に於いては、正当なルールまたは倫理的規範が破られたことを認めること([a]cknowledging the legitimacy of the rule or moral norm that was broken)が、文化の違いを超えて[共通する]重要な構成要素である。謝罪を通じて謝罪者は、倫理的規範の違反を認めて被謝罪者と共通の価値観を再肯定(re-affirm)し、倫理的な社会での構成員たることを再確認(re-certification)するよう求める。コミュニティ・スタンダードの違反を誠実に認めた場合に於いてのみ、コミュニティは違反者が再度仲間として戻ることを許容するのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 836.
謝罪は、関係を元に戻す為の手段として用いられて来た。どの文化に於いても、紛争を修復する手段としての慣行を有しているのである。 / そもそも文化とは、通常は例示による教育というロール・モデルを通じた学習を伴う集団志向の社会的現象である。子供達は大人の環境への参加の副産物として多くを学ぶ。 Pavlick, Apology and Mediation, at 837.
階層的・階級的文化(hierarchical culture)に於いては、社会的関係の維持が余りにも重要過ぎる為に、訴訟等によってこれを危うくすることができない程である。 / これと正反対に、アメリカのような個人志向の社会(individual-oriented culture)に於いては、個人の自律と選択(individual autonomy and choice)こそが価値を置かれる。 (アメリカは調査した国々の中で最も個人主義的であるとされ、 その文化的特性は訴訟への偏向を支持するものである。) 個人の自律の強調は、偏狭な個人的利益の勢力的な主張(the vigorous assertion of narrowly defined personal interests)へと導かれ、他人の権利と対極的な衝突(polar conflict with the rights of others)を生じさせるように思われる。そのような文化では「謝罪」に対して余り重きを置かず、[代替的]紛争解決よりは、むしろ訴訟を使う傾向になる。個人志向の文化に於いては「関係性」は社会の枠組みの中で余り重要な役割を有していないから、「謝罪」にも低い価値しか置かれないのである。 ... Pavlick, Apology and Mediation, at 840 & n.59, 841.
謝罪は、既に生じた損害を無しにするものではない。しかし、過去を変えるものではないけれども、謝罪はその更正的・改心的な力を通じて権利侵害を変容させ、権利侵害が社会関係に対する恒久的障害となることを阻止する。過去は消えないけれども、現在は変わるのである。 Pavlick, Apology and Mediation, at 841.
William Ian Millerによれば、良心の呵責(remorse)は、容易に偽ることができる感情である。簡単に偽れる謝罪(apology’s easy fakeability)を許さない為には、謝罪する者に痛みを与えることによって謝罪を確実なものにすべきである。 Taft, On Bended Knee, at 610.
Millerも、私(Taft)の主張と同様に、謝罪する者にその真正さ(authenticity)を証明するように求めているのである。謝罪者は謝罪の結果をも受容すべきである。 Taft, On Bended Knee, at 611.
[言葉だけではなく行為も伴う]真正な遺憾を維持することにより、良心の呵責(remorse)を言葉で述べるだけで惹き起こした責任から距離を置こうとする倫理の堕落(the moral backslide)を避けることができるのである。 Taft, On Bended Knee, at 615.
謝罪するときには、...裸で向かい合う(we stand naked)のである。言い訳なしに([n]o excuse)…。Pavlick, Apology and Mediation, at 845.
被害者は謝罪を受け入れる場合に於いてさえも、少なくとも部分的な賠償を要求するものである。 See Taft, On Bended Knee, at 609.
謝罪が被害者を癒すからといって、謝罪を奨励するために謝罪した加害者の金銭賠償義務を免除すべきではない。もし仮にあなたが私を井戸に突き落とした場合、良心の呵責の表明が私の苦痛を本当に和らげるであろうか(an expression of remorse really do to alleviate my suffering?)。 いや、本当に苦痛を和らげてくれるのは、梯子と光をくれることである。 / reparation(賠償金、回復、修繕)が伴わない「御免なさい」(“I’m sorry”)の言葉だけでは駄目である。 See Taft, On Bended Knee, at 606-07. /
屈辱を与えることこそが充足の目的であり、訴訟を追行する唯一の理由であるという不法行為賠償責任請求者がいるかもしれない。悪事・非行(wrong)に復習したいという主張は、人の心理と堅く結び付いているのかもしれない([t]he urge to avenge wrong … may indeed be hardwired into the human psyche…)。しかしそれでも私(Taft)の20年の不法行為専門家としての経験に於いて、敵を跪かせたいことだけを望む依頼人に遭ったことはなく、皆、同時に60頭の羊をも求めたのである。 Taft, On Bended Knee, at 613.
Miller曰く、「血の宿恨の文化」(blood-feud cultures)である以下の13世紀の儀式・慣例(rituals)は、良心の呵責の虚偽という問題を如何に解決していたのかを表している。即ち、加害者が誤って被害者を叩いてしまったとき、まず加害者は「御免なさい、わざとではなかったのです」(“I am sorry, I did not mean to hit you.”)と被害者に伝える。更に重要なことには、「私を責めないようにする為と、わざとではなかったことを理解してもらう為に、60頭の羊を差し上げましょう。」(“I will pay you sixty sheep so that you will not blame me and will understand that I did not mean it”)と付け加えたのである。 / 故意の加害の場合は、死闘の後に、和解と平穏の為の儀式が次のように行われたという。即ち、加害者は頭を被害者の膝に差し出して、その頭を返してくれるように懇願した(X having lay his head on Y’s knee and plead with Y to give it back)という。このような文化に於いては、謝罪と、屈辱と、補償と、赦し(apology, humiliation, compensation, and forgiveness)とが、混在している。しかしこのようなことは、謝罪が容易に偽れることを考慮すれば、必要なのである。Taft, On Bended Knee, at 610-11.
[カガイシャとヒガイシャの間の]人間関係の再形成(to reshape personal relationship)の為にヒガイシャが司法制度を用いる(i.e., 不法行為訴訟制度が「権能付与/衡平」へのヒガイシャの要請に資する)という指摘は、Laura NaderによりメキシコのZapotec Courtの研究に於いて観察されている。同裁判所では「目には目を」が目的ではなく、人間関係を均衡状態へ修復することこそが目的とされる。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 56 & n.87.
古代ギリシャ人は、「復讐=正義」という正義観を持っていました。しかしそのような正義観は悪循環に陥るという問題を、アイスキュロス作の『オレスティア』三部作は示していると分析されています。See アイスキュロス作、 久保正彰訳 『アガメムノーン』144-45頁(1998年、岩波文庫).
映画「トロイ」(2004年、ワーナー・ブラザーズ、ブラッド・ピット、オーランド・ブルーム、ショーン・ビーン、他出演、ヴォルフガング・ピーターゼーン監督).
ところで「復讐=正義」という古代ギリシャ人の正義観は、 『アガメムノーン』に出て来る以下の台詞に象徴されているのではないでしょうか?
「為し手は、為しただけのことを、報いとしてその身に受ける」
久保訳, supra, at 146.
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この点に関しては、「法と文学」研究の旗手ホワイト教授も以下のような指摘をしています。
古代ギリシャ悲劇詩人アイスキュロス(Aeschylus)作『オレスティア』(THE ORESTEIA)は、応報的正義(retaliatory justice)の物語であり、世代間に亘る「復讐の連鎖」(the chain of vengence)と、そのように途絶えることなく継続する復讐に対して社会が終止符を打つことのできる公的制度としての裁判と制裁の形成を讃えている。
WHITE, THE LEGAL IMAGINATION, supra, at 246-47.
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ギリシャの哲人アリストテレスも『ニコマコス倫理学』に於いて、「正」とはお互いに対して応報を得たことであり応報的であるというピュタゴラス学徒の主張として以下のような文言を紹介していまます。
「なしたところをなされてこそ/まがりのない/正義の審きというもの」
高田訳, supra, at 185.
更にアリストテレスは続けて彼自身の主張として以下のように指摘している。
【分配的正義と矯正的正義について】
「…正義の、ないしはこれに則した『正しい』ということの一種は、名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分かたれるところのものの配分におけるそれであり(…)、他の一種は、もろもろの人間交渉において矯正の役目を果たすところのそれである。…。」
高田訳, supra, at 177 (emphasis original).
【矯正的正義の内容について】
「…裁判官が均等化しようと勤めるところのものは、…「不均等」…にほかならない。詳しくいうならば、一方が殴打され他方が殴打するという場合とか、ないしはまた一方が殺し他方が殺されるという場合にしても、するとされるとで不均衡に区分されることになる。だからして、裁判官は、一方から利得を奪うことによって罰という損失でもってその均等化を試みるのである。…。[矯]正的な『正』とは、利得と損失との『中』でなくてはならない。 / …。裁判官は均等を回復するのであるが、彼はいわばひとつの線分が不均等な両部分の分かたれている場合に、大きな部分が全体の半分を超えているそれだけのものをそこから取り除いて、小さいほうの部分へ付け加えてやるのである。そして全体が折半されたものになるにいたったとき、『自己のものを得た』といわれる。均等なものを得るのだからである。…。/…。自分に属する以上を得ることが利得、最初自分に属していたよりも少なくしか得ないのが損失と呼ばれる。…。/だからして『正』とは、ここでは、一方の意に反して生じた事態におけるある意味における利得ならびに損失の『中』であり、事前と事後との間に均等を保持するということにほかならない。 」
「実際、国の維持されてゆくのは比例的な仕方でお互いの間に『応報』の行われることによってなのである。けだし、ひとびとはあしきことがらに対しては、やはりあしき仕方で応じようとする。然らざればそれは奴隷的な態度だと考えられている。またよきことがらに対しては、彼らはやはりよき仕方で応じようとする。さもなくば相互給付ということは行われず、ひとびとは、しかるに、相互給付という楔[くさび]によって結ばれているのである。」
高田訳, supra, at 182-83, 184-85, 186 (emphasis original).
以上の引用文の内、最後の段落の指摘は、私見では「もの作り」という「善」たる行為に対して、むやみやたらと無過失責任を課すことの反正義性を説明することにもなると思われます。何故ならば、「もの作り」という「よきことがら」に対して本来ならば「よき仕方で応じようとする」べきなのに、逆に、無過失責任の賦課という「あしき仕方で応じようとす」れば、社会に必要な「もの作り」という「相互給付ということは行われず、ひとびとは、しかるに、相互給付という楔によって結ばれているのである」からである。「もの作り」に限らず、小児医療や婦人科医療等、不法行為訴訟の拡大の対象になっている「善」たる諸行為の提供者にとっても、同じことが言えると思われます。
[賠償義務を伴う]真正(authentic)なrepentance(遺憾、後悔)の重要な要素は、悪事・非行(wrong)を犯した者が過誤から学んで他人へ同様な危害を与えないように行動を変えるという変革(restructuring)の意思を伝達することに於いて重要である。加害者の自己変革は、被害者にとって無意味だった悲劇が契機となって他人が同様な害を被らずに済むことになったという意味を与えられるように変化するからこそ、被害者にとって非常に重要なのである。 Taft, On Bended Knee, at 615. / 真正な儀式・慣例(authentic rituals)や遺憾の行為(acts of repentance)は被害を和らげるからこそ、それらを奨励する手立てを不法行為制度の中で探るべきである。 Taft, On Bended Knee, at 615.
死亡の原因に対する責任に関して純粋な疑念が残る場合、訴訟は死者に対する義務を果たすこと(fulfill their sense of duty)になるから、残った者達の悲嘆[の解消]過程を促進する。逆に死亡原因の責任について純粋な疑念がない場合には、訴訟は悲嘆[の解消]過程を阻害する。死亡の現実に向き合わず、不釣合いに死亡原因に執着する(inappropriately focusing on the cause of the death rather than confronting its existence)からである。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 62.
賠償を得る為には過誤の立証が原則として必要。故に金銭的利益から、被害者は損失の責任を他人(凵jの所為(せい)にするように奨励されている。従って、賠償を得られる可能性のある場合、被害者は自身の請求を正当化できるように過誤を[他人(凵jに]帰すという主張をきいても驚くに当たらない。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 60.
そして、被害の原因を自身以外に帰属させるとき、人は訴訟をより提起しがちである。Randの研究によれば、被害の原因として主に他人を責める人々は、自己を責める者より12倍も提訴を検討しがちである。過誤に基礎を置く不法行為制度は、我々が命に対して自己責任を負うよりも、むしろ我々の不幸を他人の所為(せい)にすることを奨励する(blaming others for our misfortunes rather than taking personal responsibility for our lives)。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 60.
不法行為上の制裁(tort law sanctions)が抑止効果を生んでいることを示す[有効な実証は]存在しない点が、抑止論の難点である。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 43.
謝罪は、法的・経済的救済が為し得ない方法で被害当事者の回復(make injured parties whole)を助ける。 Pavlick, Apology and Mediation, at 832.
刑事責任は、社会に対する悪(a wrong against society)であり、国家に対する違法(offense against the state)である。被告人への訴追手続への被害者の参加(participate in the prosecution of a defendant)は限られたものとなっている。 Shuman, The Psychology of Compensation, at 71-72.
【未校閲版】without proof