法と文化」研究
Cultural Studies of Law

Law and Popular Culture / Public Perceptions of Laws, Legal Systems, and Lawyers

中央大学 教授(総合政策学部)/ 米国弁護士(NY州) 平野 晋

Susumu Hirano, Professor of Law, Faculty of Policy Studies, Chuo University (Tokyo, JAPAN), Member of the New York State Bar (The United States of America)  Copyright (c) 2005-2011 by Susumu Hirano.   All rights reserved. 但し作成者(平野晋)の氏名&出典を明示して使用することは許諾します。 もっとも何時にても作成者の裁量によって許諾を撤回することができます。 当ページ/サイトの利用条件はココをクリックTerms and Conditions for the use of this Page or Site. 当サイトは「法と文化研究」の研究および教育用サイトです。関連ページは「法と文学」のページです。 First Up-loaded on May 2. 2005.

【未校閲版】without proofreading

目次

法と文化研究の重要性

「法と文化研究」に於ける「文化」とは何か? --文化の定義--

 法と文化人類学 anthropology of law

現代の民事訴訟制度が、未開地や古代の「神託」と「巫女」に近似しているという指摘を紹介。(アフリカ、古代ギリシャ、アメリカ、および欧州大陸)
正義の女神ユスティティアと目隠しの有無
法制度と儀式

法へ影響を与える大衆文化

アメリカ法文化のグローバリゼイション

大衆文化に映る法

アメリカ文化にまで昇華した「ミランダ権利」Miranda rights
法と法律家のイメージ

アメリカ文化の特徴

ポピュリズム
実体[法]を重んじる大衆と手続[法]を重んじる法曹

マスコミの[悪]影響 

マスコミの報道は、危険性を合理的に伝達しておらず、ドラマチックな大衆受けする報道に偏っていると分析されています。そのため、大衆も、危険性を合理的に把握することが更に難しくなり、不合理な危険意識を有することになる一因であるという指摘があります。
大衆の抱く法意識についても、マスコミの偏向が影響を与えていないとは言えないのかもしれません…。

非合理的≠ネ大衆意識 

経済学的な合理的分析手法によれば危険効用考量分析によって正当化される危険回避措置へのコスト計算も、大衆の非合理な感情からは受け入れられないという分析があります。大衆は感情に流されて、非合理な決定を下し、企業・被告に理不尽な責任のレッテルを課すことになるという分析です。
大衆の抱く法意識にも、同じように感情に流されて非合理な面が無いとは言えないのではないでしょうか。 更に、情報不足(information cost)等によって、誤ったレッテルを貼っている面があるのではないでしょうか。 例えば法曹に対する大衆意識がアメリカでは必ずしも正しくないという分析があるように…(参考「ロイヤー・ジョーク」)。

隣人訴訟≠ノ対する大衆意識 (日本)

To Be Built.   See 小島武司、他『隣人訴訟の研究〜論議の整理と理論化の試み〜』(1989年、日本評論社).
「隣人訴訟」に関連して筆者が関心を寄せている争点は以下。

その他、納得がいかないと批判されている訴訟例(日本) 

千葉市動物公園ベンチ転落児童死亡事件 / 喉に割り箸が突き刺さった子供を診断した医師への名誉毀損が認容されなかった事件 / 桑名市民病院脳腫瘍事件 / 

カラオケ騒音訴訟に見る日本人の法意識

熱いコーヒーが欠陥≠ナあるというPL訴訟に対する大衆意識 

To Be Built. 

ファーストフードの食べ過ぎで肥満≠ノなったという訴訟に対する大衆意識 

To Be Built.   See  「ファーストフード(外食)が肥満症を生じさせた損害の賠償責任に関する研究

日本に於ける伝統的な「法意識」研究への批判

See, e.g., Kenneth L. Port, The Case for Teaching Japanese Law at American Law Schools, 43 DEPAUL L. REV. 643, 662-70 (1994).

Michael K. Young, Masanobu Kato, & Akira Fujimoto, Essay, Japanese Attitude towards Contracts: An Empirical Wrinkle in the Debate, 34 GEO. WASH. INT'L L. REV. 789 (2003).

  筆者の関心事は以下。
アメリカでも、他人の富を私化する傾向があるのではないか、という疑問。 すなわち、Coporationsの領域では、managerial capitarismの下でmanagersが企業を私化しているagency costsの存在を前提に、「法と経済学」的視点からそのコストを如何に効率的に抑止するかという議論が昔からなされています。 更に、米国の弁護士倫理学の世界でも、日本と同様に依頼人のお金を私化する輩が問題になり、口座を分ける義務がNYで課されるようになっています。  こららの諸現象は、日本だけでなくアメリカでも他人の富をひとたび占有すると私化する傾向の証左となるのではないでしょうか。 …

アメリカ田舎町に於ける訴訟≠ノ対する法意識

David M. Engel, The Oven Bird's Song: Insiders, Outsiders, and Personal Injuries in an American Town, 18 LAW & SOC'Y REV. 551 (1984).

初期入植者時代にはアメリカでも訴訟が支持されていなかった

裁判依存症(hyperlexis)への批判

 不法行為訴訟に於いて「謝罪」(土下座=H!)を求める日本人独特な感情的・非合理的文化について 〜金銭賠償を原則とする西欧合理主義規範たる民法と大衆文化との齟齬 

Hiroshi Wagatsuma & Arthur Rosett, The Implications of Apology: Laws and Cultures in Japan and the United States, 20 LAW & SOC. REV. 461 (1986) (「apology」の意味自体がアメリカと日本で異なる云々という興味深い比較法文化的指摘です).

First Up-loaded on May 2. 2005.

 大岡裁き≠ニ衡平*@的な正義 (日米比較) OOKA THE WISE and Equitable Justice

「衡平法」(equity)とは…(その一)
 「衡平法」(equity)とは…(その二)
「衡平法」(equity)とは…(その三)
衡平および裁量権と法の支配との相克
硬直化した法の支配と衡平(裁量)の重要性
アメリカ民事手続法に於ける衡平・裁量権の拡大
To Be Built.

参考文献・出典

法と文化研究の重要性

この点に関し、Asimow & Naderは以下のように指摘しています。

現在の人々はテレビを30分間観るだけで、産業化社会以前の人々が一生涯で消費する以上のイメージを消費するのである。 / 大衆文化は人々の法意識を構築するのと共に、司法制度関係者の行動を変化させると我々は信じている。
法や法曹に関して知っていると思っている殆どの事柄を、殆どの人々は、大衆法文化の消費を通じて獲得しているのである。

出典: MICHAEL ASIMOW & SHANNON MADER, LAW AND POPULAR CULTURE: A COURSE BOOK xxii, 7  (2004).

この点に関し、ローレンス・フリードマンは以下のように指摘しています。

正当性の見方には、二通りがある。一つは「理論的・哲学的な規範」(theoretical-philosophical-normative)によるもの。二つ目は「叙述描写的」(descriptive)なものである。後者に於いては、関連する大衆によって正当であると「見られる」ことにより、制度は正当たり得るのである。従って、この社会に於いては、司法府の審査権や司法積極主義の正当性は、大衆意見の問題であり、大衆法文化の問題なのである。   /   裁判所や他の司法機関の正当性の手がかりは、社会的かつ実証的に検討する限りに於いては、[法]理論の構造の中や法学者の文章の中には見出し得ず、大衆と大衆文化の諸機関との間を行き交う広範なメッセージの中にこそ見つかるのである。   フリードマン, infra, at 1604- 05.

出典: Lawrence M. Friedman, Law, Lawyers, and Popular Culture, 98 YALE L. J. 1579, 1579-80 (1989).

法がどう在るべきか(what should law do)を知るよりも、むしろ法が実際には如何に適用されているのか(law actually do)を知る為には、公式に書かれた法(formal written law)を考慮しただけでは不十分であり、大衆法文化を含む、公式に書かれた法の外部の諸要素(factors outside)に焦点を当てなければならない。それはしばしば「law in the book」ではなく「law in action」と呼ばれるものである。何故そうなのかといえば、法の作成者や適用者(law makers and law appliers)は、自身が何を信じるのか次第でその立法・適用が大きく作用される。そして何を信じるのかは、彼らが消費する大衆法文化の影響を大きく受けるのである。だからこそ、法が実際には如何に適用されるのかという「law in action」を理解する為には大衆法文化を含む外部の諸要素に焦点を当てることが必要なのである。(このような立場はlegal realisticな視座である。

出典: See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 7.

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「法と文化研究」に於ける「文化」とは何か? --文化の定義--

法と文化研究に当たっては、まず何が「文化」なのかという定義を理解することが必要でしょう。以下、参考になる分析を例示しておきましょう。

「文化」とは、広く社会グループで共有される伝統的な思想(ideas)、価値(values)、および規範(norms)である。規範的な信念(e.g.,国家が認める場合以外の殺人は禁じられる)と、認知的な信念(e.g.,地球は丸い)の双方が含まれる。更に、象徴-symbols-(e.g.,正義を示す天秤)も含まれる。文化は、規範的な社会機構への参加と日常の風習を通じて活性化され構築される意味(meanings)や理解(conceptions)や解釈(interpretive schemes)から構成される。

出典: OSCAR G. CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL: DISPUTING SYSTEM IN CROSS-CULTURAL CONTEXT 6-7 (2005, New York University Press).

「法文化」とは、人々が抱く法に関しての概念、態度、価値、および意見を意味する。  「大衆文化」とは、インテリ"以外"の一般人が抱く規範[意識]や価値の意味、または、本や歌や映画や演劇やテレビ等という意味での文化である。 / 「大衆法文化」とは、一般人や素人が抱く法に関する概念や態度、または、法や法曹を描く本や歌や映画や演劇やテレビ番組を意味する。 

出典: Lawrence M. Friedman, Law, Lawyers, and Popular Culture, 98 YALE L. J. 1579, 1579-80 (1989). なおこのL.フリードマンの定義は、ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 3-4に於いても紹介されていました。

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法と文化人類学 anthropology of law

 民事訴訟制度と、「神託」(oracle)+「占い師」(diviner)の近似性

アフリカの未開社会や古代ギリシャに於いては、[民事]紛争解決が「神託」や神のお告げ等を解釈する「占い師」等に委ねられていて、これは実は現代社会に於ける[民事]紛争解決に於いて中立性等が求められていることと同じであるという指摘・分析が、古くから散見されます。

以下ではそのような指摘の内、最新のものとして、NYUロースクールのChase教授のモノグラムから紹介してみましょう。このChase教授の指摘は、多義的な法と法解釈の性格を、非常に説得的に言い表しているように思われます。

CHASE, infra, at 1-2, 16.

CHASE, infra, at 35-38.

CHASE, infra, at 40-42.

出典: OSCAR G. CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL: DISPUTING SYSTEM IN CROSS-CULTURAL CONTEXT (2005, New York University Press).

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正義の女神ユスティティア(Justitia)と目隠しの有無

上の項目で紹介したように、ギリシャ時代の女神テミスには目隠しがされていなかったようです。しかしローマ時代の正義の女神ユスティティアはどうでしょうか?

この女神ユスティティアも、文化と法意識の相互作用が関係しているとAsimow & Maderは以下のように興味深い指摘をしています。

ユスティティアは目隠しをし正義を象徴していると捉えられている。しかし中世のユスティティアは概ね目隠し無しで表されていた。
その後に付された目隠しは、紛争の全ての言い分を注意深く衡量した後に初めてその力(抜き身の剣)を行使するという慎重さ[のみ]を含意していた。
しかし15〜16世紀にかけて目隠しを付されるようになったユスティティアが町の広場や公的建造物に散見されるとうになると、法は誰でも身分や地位と無関係に公平・平等に人々を扱うという意味を表すようになって来た。
そのように目隠しを付されたユスティティアは、西洋司法制度の重大な変化を表しているのである。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 9-10.

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法制度と儀式

前掲「法と文化人類学」の項に於いてChaseが指摘したように、現代先進国の法制度が依然として古い「儀式」(e.g., 判事のガウンや高い位置にある判事席や古代ギリシャ建造物風の建築様式等)を採用するのは、権威を示すという意図があるようです。指摘したように、現代先進国の法制度が依然として古い「儀式」(e.g., 判事のガウンや高い位置にある判事席や古代ギリシャ建造物風の建築様式等)を採用するのは、権威を示すという意図があるようです。

大衆文化(e.g., 法曹映画や法曹TV番組)に於いても、そのような儀式を作品に表すことにより「権威」を視聴者に感じさせてリアリティーを作品に与えているという分析が、Asimow & Maderによって以下のように示されています。

法廷映画(a trial film)に於けるestablishing shotは通常、...遠方からのショット(すなわちlong shot)から入って裁判所や法廷を見上げるように映す。 ...。 この映像表現は裁判所と裁判官の権威を明確化することに資するのである。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 13.

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法へ影響を与える大衆文化

大衆文化が法規範の形成に影響を与える例として、ローレンス・フリードマンは、自動車が生んだモビリティーを例示しながら説得的に分析しているので紹介してみましょう。

社会の具体的な現実や出来事等の社会の力が、「如何に」、法制度を衝き動かしたかという介在的な繋がりを示すものの一つが、法文化である。 フリードマン, infra, at 1583 - 84.
自動車の発明は、移動の自由を人々に与えたことにより、職場から更に離れた所にも住めるし、距離も縮まり、知人や友人との束帯も強固にさせ、拡散化した核家族社会と、万華鏡のように多様で何百万通りもの選択を許された個人の習慣や肌の色や宗教や「ライフスタイル」やプライベート・ライフを強調する「表現的」個人主義("expressive" individualism)が構築される基礎となった。更にモビリティーは法制度にも影響を与え、「個人」と個人の選択・同意に対する極端な尊重が様々な法領域に通じる中心思想となったのである。(この20世紀の表現的個人主義は、19世紀のユーモアに欠ける、神を畏れて働き者の、人生に於いて「前進」を強調していた熱心な[富の]極大者であった「功利的」("utilitarian")個人主義とは異なるものである。) フリードマン, at 1584-86.  / モビリティー[の幻想]に於いては[貧困層から富裕層への移動が実際には難しいとしても]、.../ここでは、実際に実現できることが重要なのではなく、できるはずであると思うことが重要なのである。出世するに値する貧乏人が出世し、富裕者は腐った果実のように堕ちてしまうとか、選択と機会は現実的に[手に入る]、などと[思う]ことが重要である。  大衆文化は、自由と自由な選択に多くの信仰を抱いているように見える。社会のアレンジメントは理想からかけ離れていることを皆知っては居るけれども、それは正常ではない欠陥[に過ぎないと人々は思う]のである。 すなわちモビリティーとは、多くの部分、脳内概念(a mental construct)なのだ。 フリードマン, infra, at 1586-87.

出典: Lawrence M. Friedman, Law, Lawyers, and Popular Culture, 98 YALE L. J. 1579 (1989). なお「19世紀の...神を畏れて働き者の...個人主義」云々という指摘は、あの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を思い起こさせる指摘ではないでしょうか。このようにL.フリードマンのこの論文は、文化研究のみならず社会学的なアプローチも垣間見られて興味深いものです。

_______________.

更にAsimow & Maderの以下のような指摘も、大衆[法]文化が法に影響を与える作用を理解するのに役立つのではないでしょうか。

「ザ・ソプラーニ」に於いて「ゴッドファーザー」内での出来事やキャラクターがしばしば言及されるような「間テクスト性(相互テクスト性)」(intertextuality)は、映画作品相互間に於いて生じるばかりか、現実世界の法制度と映画上の法制度の間にまでも広がる(to span the divide between "real" and "reel" legal institutions)。人々は次第に、現実世界の弁護士が「何故『ロー・アンド・オーダー』の中のような簡潔な最終弁論をしないのか?」と質問をし始めるのである。すなわちメディア表現は、しばしば、現実世界の法の機能を人々が評価する際の基礎を提供するのである。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 15. なおこの相互作用は、後掲「ミランダ権利」の項にも通じる指摘でしょう。ところでAsimow & Maderは、アメリカ裁判の、アドヴァーサリー・システム(当事者対抗主義)も、繰り返し大衆法文化で視聴者に示されることにより、その支持が増すのではないかと以下のように示唆しています。

Anatomy of a Murder 」(或る殺人)や、(「ペリー・メーソン」から始まって「Law & Order (ロー・アンド・オーダー)」に至るまでの)法曹に関する数え切れない程のTV番組は、視聴者の知力(mind)の中でアドヴァーサリー・システムを正当化する働きに資するのではないだろうか

Id. at 27.

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アメリカ大衆法文化のグローバリゼイション

アメリカの大衆法文化はアメリカ大衆やアメリカ国内法に影響を与えるだけではなく、世界にも影響を与えるのではないでしょうか。何故ならば、アメリカのTV番組や映画が紹介するアメリカ大衆法文化は、他の国々でも放送・放映されるからです。

この評者の分析に資する指摘を、Papkeが以下のように指摘しているので紹介しておきましょう。

世界中の文化が皆アメリカと同じだとは限らない。[この論文の]筆者が1986年から87年にかけて台湾大学に留学していた際、台湾のテレビではアメリカと同じようにソープ・オペラや家族もの番組や刑事番組などを放映していたけれども、「法廷もの」を決して目にすることはなかった。 しかし、スペイン人やスエーデン人は、アメリカの刑事司法やトライアルのことを自国のものよりもよく知っている。なぜなら、小説や映画、さらにはテレビを通じてアメリカの司法が沢山描かれ、そのような作品がこれらの国々に輸出されているからである。文化の伝播がグローバル化していることに鑑みるに、アメリカのポップ・カルチャー上のトライアルが地球全体に伝播することも考えられる。 

Papke, infra at 478.

以下は評者の私見ですが、そう言えば日本のTV番組等も、アメリカの「法律もの」の影響を感じさせます。たとえば天海祐希さん主演の離婚弁護士」(2004-05年、フジテレビ)では、渉外弁護士や巨大ローファームの描かれ方が、アメリカ化しています。最近の日本の「法律もの」のドラマでも、たとえば「パートナー」(経営者弁護士)や「クライアント」(依頼人)というアメリカ法曹専門用語が、飛び出すようになっています。そもそも日本の「法科大学院」のことを「ロースクール」と略称すること自体、「アメリカ化」以外の何ものでもない現象でしょう。

嘗て古代ローマ帝国のローマ法が世界に影響を与えたように、現代ではアメリカ帝国の法が、世界に影響を与えているのです。極東の辺境地、日本も、アメリカ帝国の法を真摯に学ぶ必要があるはずです。

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大衆文化に映る法

大衆文化は大衆が法を理解しているその認識を反映した鏡であるという指摘が、「法と文学」や「法と大衆文化」等の学際研究に於いて散見されます。この論点に関するローレンス・フリードマンの分析を紹介してみましょう。

A. 社会規範の反映としての大衆法文化

大衆法文化も法制度も、同じ社会基盤の上に立っている。その社会には、正しいことと悪いことについての一般的な概念が存在し、その型板から法規範が切り出され、更にその型板を材料にしてソング・ライターや脚本家がテーマやプロットを作り出している。   社会規範が時間と共にシフトすれば、法制度のテーマもシフトし、大衆文化も追従するのである。    フリードマン, infra, at 1589 (the 3rd para). / ハリウッドやテレビの態度の変化は、社会一般の変化に追従している。例えば黒人はかつてTV画面に表れないか端役に過ぎず、女性はセックスの対象に過ぎない男性の追従者だった。  /  これら根本的態度が変わって来たのは、公民権法や連邦通信委員会によって変わるように積極的に命じられたからではなく、公民権法を「生み出した」のと同じ社会事象に反応したからである。  フリードマン, infra, at 1589 - 90. / 公民権の「概念」は公民権「法」の類型よりも広く、「表現的」個人主義と同じ位である。表現的個人主義とはすなわち、個人がユニークであり、人間の中心的な仕事は自我を何とか構築することにあり、人生の方向を「選択する」ことにあるというものである。表現的個人主義がグループの特定(group identification)を廃棄した訳ではなく、逆に、個人のライフ・スタイルにより選択される[グループというような、新たに文化的に定義し直されたものが出現したのである]。   フリードマン, infra, at 1590. / 例えばエイリアン(宇宙人)の扱いも、邪悪で油断のならない存在から、ポジティヴで同情を誘うものに変化している。   /   エイリアンのような外国人も、たとえ肌の色や言語や姿かたちが異なっていても、アメリカ社会はその真ん中に彼らを抱き入れなければならない。ETは、「公民権」的なモラリティの表現であり、19世紀には全く考えられなかった深遠なる多様性主義と、広い他人の受容なのである。   フリードマン, infra, at 1590 - 91.
他方、現代のフィクションは、巨大組織というものに対して偏執狂的になっている。アメリカ政府の秘密を暴いたり、CIAが悪く描かれたり、警察等が悪く描かれたり、と。  現代の大衆文化は、確かにウオーレン・コート[要約者注1]の思想的傾向の影響が在り、警察や巨大組織へ疑念を抱き、その抑制を模索している。   フリードマン, infra, at 1591 - 92.
もっとも法と秩序に関し、上とは反対的なトレンドがあることも事実であり、「ランボー」や「ダーティー・ハリー」のように主戦論を支持し、警察や捜査や怒った市民[による自力救済・復讐劇]を文化が賞賛することもある。しかし逆に、警察をヘマをやらかす間抜けなものとして表す大衆文化も存在し、また反対に警察の暴力を必要な正当防衛として見ぬ振りをしたりもする。   フリードマン, infra, at 1592.
権威に対する疑念は、個人主義のもう一つの反射作用である。個人主義は文字通り個人を強調するから、巨大組織や政府を信頼しないのである。   フリードマン, infra, at 1592.

- 要約者注1: Earl Warren, 1891-1974が主席判事を勤めた1953-69年の連邦最高裁判所のことを言い、有名なBrown判決などの新歩的・革新的判決を出した司法積極主義で有名で、賛否両論の評価があります。

B. 大衆法文化と大衆文化

大衆の行動に対して法はコミュニケートを通じて初めて影響を与えることができる。だから例えばTarasoff Regents of the University of California」事件の判例[法] [要約者注2]も、その内容自体が重要であるのに劣らない位に重要なのは、それがどのように心理療法士達によって受け止められたかという点である。   例えば、人々が法律家(弁護士)はサメのように強欲であると考えるとき、その概念は全くの作り話というよりも、何か強欲さを示す事実があったために畏怖や嫌悪を生み出しているのだ。   フリードマン, infra, at 1592- 93. / 人々は法や法制度をほとんど知らず、知識の多くは二次的なものである。例えば、公判が如何に行われ、あるいは行われるべきかについて、人々にテレビや映画が如何に影響を与えるのかを検討したり、人々の頭の中にどのような概念をテレビや映画が与えるかを注意することも重要である。   /   この問題を検討した学術業績は既に幾つか存在するし、この試みは意味あることである。例えば、映画「12人の怒れる男」は、陪審員の主人公ヘンリー・フォンダが一人だけ無罪を主張[し、遂には全員を説得して無罪評決に導くドラマである]。 この映画は陪審裁判の現実とは異なる;実際には一人だけの反対論が全員を説得する見込みは無い。しかし、ドラマチックなこの映画は様々な重要なメッセージを伝えていて、それは例えば推定無罪の社会に於ける意味等々である。   /   多くの刑事事件の公判は、大衆文化に於いても、更に現実世界でも公開法廷を通じて、公のドラマである。  フリードマン, infra, at 1593- 95.

- 要約者注2: ロースクールの不法行為法のケースブックに登場する有名な判例。心理的な疾病を有する患者がある人物を殺害すると公言していたところ、その後、実際にその患者がその人物を殺害してしまい、遺族から病院等が訴えられ、結局、病院が被害者に対して殺害されると言われていたことを伝えていなかった等を理由に民事責任が肯定されてしまった判例。心理療法士・精神科医・病院にショックを与えました。

C. 大衆文化と権威

大衆文化は権威の指標(an indicator of forms of authorityとしての役割を果たしている。アメリカおよび西洋世界では、権威がかつてのように垂直的なものではなく、水平的なものになって来ている。伝統的な社会では、父親や村の僧侶や大地主などの権威が個人の魂を支配していた。   /   しかし、友人や学友や同僚と言った「仲間グループ」("peer group")の影響力が増すにつれ、垂直的権威の力は相対的に低下した。それまでは垂直的権威が伝えていた文化を、テレビ等の巨大メディアの権威がバイパスし、先祖や家長の文化ではなく仲間の文化を伝え、城や王様の文化ではなく富裕で有名なセレブの文化を伝えるのだ。   フリードマン, infra, at 1596 - 96. / この新しい大衆文化は、不可避的に法制度も変えた。  メディア文化は、多様性の文化であるから、必然的に伝統的な文化に閉じこもっていることは無いのである。両親や宗教組織[といった従来の垂直的権威]は、メディアによって外部からもたらされる更に広く多様な世界のメッセンジャーという強敵に立ちはだかられている。それまで社会統制を独占していた垂直的権威は、マスメディア文化時代には打ち壊されてしまったのである。   フリードマン, infra, at 1597.
政治制度も同様に変化した。現代大衆文化はその水平的な傾向を伴って、政治的権威が[大衆に]媚びへつらうことを要求している。[今や]大統領は、大衆の意見を尊重しているように少なくとも「見えな」(appear)ければならないのである。政治的権威は、意見調査・統計、公衆の神託に心を奪われているのだ。   フリードマン, infra, at 1597.

出典: Lawrence M. Friedman, Law, Lawyers, and Popular Culture, 98 YALE L. J. 1579 (1989).

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アメリカ文化にまで昇華した「ミランダ権利」Miranda rights

連邦最高裁判所判事のRehnquist閣下は、被疑者が逮捕される際に警官から告知を受ける権利である、「ミランダ警告」が、最早アメリカ文化に迄なっていると、以下のように指摘しています。[the Miranda rights not only rested on firm constitutional foundations but were] part of our national culture.」(Dickerson v. United States, ___ U.S.___, ___(2000).

私見では、旧ソ連から米国に派遣された刑事をアーノルド・シャワルツェンエッガーが主演する映画の「レッドブル」(原題はたしか「Red Heat」?)が、「ミランダ警告」の重要性を強調していたように記憶していますが如何でしょうか。

ところでAsimow & Maderはこのミランダ警告は、判例が[大衆法]文化へ影響を与え、そしてその[大衆法]文化が逆に法(「Dickerson」判例)に影響を与えた例であると指摘しています。ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR, infra, at 8.  刑事もののTV番組(1950sの「Dagnet)で逮捕するシーンが出るたびに「ミランダ警告」が読み上げられた結果として同権利が「文化」として大衆に普及し、それがRehnquist閣下によってDickerson」判例へ影響を与えたという訳です。なおDagnet」の製作者は常にLAPDの実際の手続を反映した番組作りを主張した為に、逮捕シーンでは常に「ミランダ警告」が被疑者に読み上げられ、他の作品もこれに追従したという訳です。Id.

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法と法律家のイメージ

ロイヤー・ジョーク」や「法と文学」上の研究に於いて指摘されるように、法律家や法のイメージを気にする指摘が散見されます。以下、L.フリードマンによる分析を紹介しておきしましょう。

テレビや大衆小説などは法と法律家に対する一般大衆の見方を教えてくれる。[近年では] 「法」が目立って、今までよりも公衆の目に触れていることは明らかである。  フリードマン, infra, at 1598.
法制度が[社会and/or文化の]中心に出てきた理由の一つには、法自身の変化にも拠る。公民権革命について既に触れたように、ウオーレン・コートは[大衆の]新鮮な注意を少なくとも司法府の頂点に向けさせた。バーガー・コート(以下、「要約者注1」を参照)も、「ロー対ウエイド」事件判決(以下、「要約者注2」を参照)を下すことによって、とても目立つことになったのである。   フリードマン, infra, at 1598.

- 要約者注1 1907生まれのWarren Earl Burgerが主席裁判官を務めた1969-'86年の連邦最高裁判所の意。
- 要約者注2: 妊娠中絶を禁じたテキサス州法を違憲とし、胎児の発育の一定期間までは堕胎の権利を認めた連邦最高裁判決。国民をpro-life派対pro-choice派に二分し、社会的議論を巻を起こしました。

大衆は法に対して愛憎関係を有しているようである。   /   法律家に対するジョークや漫画は沢山存在し、そのどれもが法律家を好意的には描いていないと言って良いだろう。   /   大衆文学も、法と法律家に対してアンビバレントな姿を描き出している。刑事弁護人としての法律家は良い描かれ方をするけれども、その他の法律家はイカサマ師・香具師と看做されている。   フリードマン, infra, at 1599. / 普通の人々が何故に法律家を嫌うのか、それは、シリアスなトラブルのときしか法律家のところに行かないからである。葬儀屋にも嫌なときしか厄介にならないけれども、葬儀屋は死を「創り出す」ことcreatingは無いことに比べ、法律家は報酬のために需要を喚起するのである。   /   確かに法律家はトラブルから人々を救い出してくれはするけれども、そもそも敵方の弁護士が訴えて来たために被告として訴訟に引きずり込まれた場合などにはたとえ味方の弁護士は好ましいと思ったとしても、訴訟全体の話としては否定的なイメージになってしまうのである。   フリードマン, infra, at 1599-1600.
大衆の多くを占める中間層が法律家について知るのは、近所の人の話やマスメディア等の伝聞を通じてである。法律家に関しての情報は、法律に関する真面目な資料から得るよりも、「エル・エイ・ロー(L.A. Law」(以下、「要約者注3」を参照)から得る情報の方が多いのである。   /   「エル・エイ・ロー」は弁護士の実生活を大分歪曲していて、視聴者も多くはそのことを認識しているに違いないけれども、それでも残存した印象が大衆の心に残るはずである。  フリードマン, infra, at 1600.

- 要約者注3: アメリカで大ヒットした連続テレビ番組。ロサンゼルス市内の法律事務所に所属する複数の弁護士達のストーリー。同番組を見て弁護士を志す若者も、要約者と同世代のアメリカ人の中には多く居たと思われる程の社会的影響を与えました。「アリー・マイ・ラブ」の前身と位置付けることも可能でしょう。なお嘗ての影響力のあるドラマとしては「弁護士ペリー・メイスン」を挙げることができるでしょう。古い世代の米国弁護士には、同番組の影響を受けて法曹に成った人も居るようですから。

出典: Lawrence M. Friedman, Law, Lawyers, and Popular Culture, 98 YALE L. J. 1579 (1989). 確かに彼の指摘するように、ロイヤー・ジョークジョン・グリシャムの諸作品は、批判的・皮肉的に法曹を描いているのではないでしょうか。

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アメリカ文化の特徴

「訴訟社会」や「訴訟爆発」や陪審裁判等、他国以上に際立った司法事象多発が顕著なアメリカ社会。その理由と関連性があると思われるアメリカ社会の文化的特徴は何でしょうか?以下、紹介してみましょう。まずは、Chase教授による分析です。

-要約者注1: ドクビルは150年前のアメリカ社会を観察してその特徴を記述した著述で非常に有名な人物。

CHASE, infra, at 50-55, 64-67, 70-71, 92.

以上のChase教授が指摘するように、訴訟率の高さは「権利を主張する」平等主義・個人主義に起因しているという分析は、説得力があるのではないでしょうか。日本に於けいても昨今、以前と比較すれば「アメリカ化(=法化)」したと捉えられる諸現象が散見されるようになった理由としては、権利を主張する平等主義の高まりが背景に存在するのかもしれません。

たとえば目上の人として医師等の専門職は尊敬を込めて「先生」と呼ばれる慣行が日本にはあったのに、それが(意図的に?!)排斥されて「さん」付に格下げされてしまったり、逆に「さん付」されていなかったタレントが「さん付」されて昇格したりという風潮は、「平等」主義の高まりを象徴し、権利を主張する傾向も助長しているとも捉えることが可能ではないでしょうか?

更に、coordinate idealがアメリカの特徴であるという分析は、陪審裁判制が生む一貫生の欠如等をよく説明できるものと思われます。

加えて、紛争解決に於いては、人々が手続に公正感を抱くことこそが結果よりも重要であると示唆している点は、紛争解決の本質をつく指摘であると思われます。

_____________________.

次に、評者が最近発見したアメリカ[大衆法]文化の特徴を現す映画として、「サンキュー・スモーキングThank you for smoking, Fox Searchlight pictures, 2006アーロン・エッカート主演、ロバート・デユバル、ロブ・ロウ共演)を挙げたいと思います。

同作品中では、煙草会社を擁護するロビーイスト業界団体のPR部長(Vice President)の主人公Nick Nalor(アーロン・エッカート)が、息子からの質問に対して以下のように応えています。

Q:     "what makes America the greatest country on Earth?"
Ans.:  "Our endless appeals process."

これは、彼の仕事と作品のテーマを象徴する言葉です。すなわち彼は、人々から悪と捉えられている煙草産業の擁護者の役割を演じ、その正当性を主張するのが仕事です。煙草の喫煙は自己の選択権の問題である、弁護士は凶悪な殺人犯も擁護する、公平な裁判を受ける権利(=非難される団体も擁護される権利)は全ての人[および団体]にも及ぶのである、というのが彼の持論なのです。加えて彼の友人は、銃製造業者とアルコール飲料産業のロビーイストという設定になっていて、彼ら三者[ATF?]を併せて「MOD: Merchant of Death」と呼んでいるというプロットまで入っています:-)

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ポピュリズム

企業性悪説のようなアメリカの大衆法文化は、いわゆる「ポピュリズム」(populism)による影響が原因ではないかと、当ウエブページの筆者は以前から指摘して来ました。See, e.g., アメリカ不法行為法-主要概念と学際法理317-20頁2006年、中央大学出版部).

ところで、元凶である「ポピュリズム」(大衆主義、大衆迎合主義)とは一体、どのように定義、分析されるのでしょうか?政治学の見地から大嶽秀夫氏が概ね以下のように指摘していますので、非常に参考になります。

See 大嶽infra, at 111-15 (emphasis added).

以上の分析をアメリカの訴訟問題に当てはめて見ると、私見では以下のようなことが言えると思料します。

- 善悪の対立構造の中の「悪」として凵i企業、病院、医師、国、組織、等)を捉える。
- ドラマとして、民事事件を、「悪い剔ホ弱いヒガイシャ」と捉える。
- 巨大な悪徳企業等の凾ノ対抗するπ側弱小弁護士や弁護団がヒーローとして登場する。
- 汚い儲け主義の刳驪ニ等に対して、民衆の代表であるπ側弁護士が「聖戦」を挑む。 → 「ダビデとゴリアテ」的な構図。
- 権力者たる剔ホ権力のない正義のπ側弁護士という二元論的対立で事件を描く。
- ジャーナリズムの報道も、上の二元論的に凵∴ォと、正義のπ側弁護士という二元論で決め付けたような報道を垂れ流す。
- 例えばPL法の無過失責任主義は「消費者寄り」であるという単純化したレトリックによって、実は存在するはずの「注意深い消費者」対「愚かな原告」との利害対立を覆い隠して、無過失責任主義賛成論を形成させてしまい、反対論者は全て「反消費者寄り」というレッテルを貼る。

なお大嶽氏は、「ポピュリズム」の定義を以下のように試みています。

See id. at 118-19.

そういえば、企業性悪説的に剔、を糾弾するような論調の人々としては、上の定義がそっくり当てはまりそうな連中がうようよしているのではないでしょうか?すなわち、以下のような「決め付け型」の論調が、いわゆる知識人とか、コメンテイターとか、キャスターとか呼ばれる人々やマスコミに、多く見受けられます。

- 凵i企業や病院や医師や国や組織等)は「悪玉」で「敵」であり、「普通の人々」を一員でることを強調した反対運動家や反対運動やマスコミは皆「善玉」である。

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実体[法]を重んじる大衆と手続[法]を重んじる法曹

[特にアメリカの]法曹は手続的正義を重視しますが、大衆は実体的正義を重んじるという法意識の違いが、しばしば指摘されています。まずはL.フリードマンの分析を紹介しましょう。

法律家にとっての自由と民主主義は、大衆全般と異なって、主に「手続的」文脈に於いて認識される。法律家は、「適正手続[の保障]」こそが、法による支配の肝であると教わっているのである。狭い意味でのそれは、告知聴聞の権利の付与であり、広義では立法過程[の保障]すなわち投票[参政]権と過半数の原則である。狭い意味の手続を遵守していれば、不利益行政処分も刑事公判も正当化され、広い意味の手続を遵守すれば立法も正当性を帯びる。   フリードマン, at 1603 (the 3rd para).
手続を重んじる法律家と異なって、素人は正義や自由や民主主義を明らかに「実体的」な文脈で考える。 大衆にとっては手続よりも「結果」こそが重要なのである。  素人大衆にとって「権利」が重要であり、権利が侵害されれば憤慨する。その権利を守ってくれる制度は正当化されるのだ。   /   だからこそ、合衆国の、更には西洋社会に於いても益々、現代法文化に於いては裁判所が中心的な役割を占めるのである。   合衆国では司法府が益々「帝国」になり、三権の他の政府機構を侵食し、国家の善のために余りにも強大になり過ぎているようである。   /   「ブラウン」事件から「ロー対ウエイド」事件、他、に至る判決を通じて、裁判所の行為は多くの利益団体や大衆の多くの部分を怒らせて来た。にもかかわらず、司法は、平均的な市民、特に負け犬達の支持を広く獲得してきたと筆者は思う。諸権利を守護し、あるいは拡張する制度に対し、大衆文化は「非民主的」だというレッテルを貼らないのである。  市民の権利を拡大してきた司法判断を、権利諸団体、および、私達の多くは、非民主的だと思わず、結果[重視的]思考、実体[法]的思考を有し、法と法制度の「正当性」は、制度が何を「するのか」によって私達が理解しかつ評価するのである。   フリードマン, at 1603 (the last para) - 04(the 3rd para).

次にAsimow & Maderの指摘を紹介します。こちらの方が判り易いでしょう。

多くの法曹は真実の発見が如何に困難であるかを、特に過去に生じた出来事に関する真実の発見の困難さを理解しているので、実体的正義の概念に不安を抱く。
だからこそ法曹は実体的正義よりもむしろ手続正義を語るのである。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 25. 確かに前掲「法と文化人類学」の項にて紹介したような、そもそも真実の発見が神託の解釈と同様であるという分析が生じる背景には、法曹が真実の発見の困難さを前提にしたものだと言えるのではないでしょうか。(事実認定は、知りようがない過去の争いのある事実を知ろうとする試みである点に於いても神託に似ている、とChaseは分析していました。)

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マスコミの[悪]影響

法と行動科学(認知心理学)」上の研究は、人が、鮮明なニュース報道等によって危険を過大評価する等の「ヒューリスティック」な影響を受けると指摘しています。

そこで、マスコミが、センセーショナルなニュースばかりを偏って報道する姿勢は、人々の判断上の誤謬を助長することに繋がります。更に、人々の抱く法意識等が誤って形成される虞もあるはずです。

そのような問題の例としては、「マ○ド○ルド・コーヒー訴訟」に関する報道を挙げることができます。

すなわち、ファースト・フード店の持ち帰り用ホット・コーヒーを零して火傷した老婦人がファースト・フード店に対して損害賠償請求の訴訟を提起したところ、数億円もの陪審評決を得たというこの事件は、一方的に彼女ばかりを責めるような報道をされて、問題があるという指摘があります。 See Michael McCann, William Haltom, and Anne Bloom, Law and Society Symposium, Java Jive: Genealogy of a Juridical Icon, 56 U. MIAMI L. REV. 113 (2001).

この論文は、以下のように指摘しています。

McCann et al., infra, at 116, 131, ___.

___________________.

マスコミ報道が事実を「ドラマ化」することが偏向を生むという分析は、日本の政治学者も以下のように指摘しているところです。

すなわち、「スートリー性」と事件の「意義付け」によってポピュリズムを支えるドラマが成立する。ニュースは「まとめる」と偏向すると言われていて、ワイドショー的ニュースは「編集」に力を入れた為に偏向の危険性が大きくなってしまい、ニュースは面白ければ面白い程に偏向の危険性が高くなる、と。

See 大嶽infra, at 226.

この分析は、そのまま前掲「ホット・コーヒー火傷訴訟」報道の弊害に当てはまる問題でしょう。

日本のマスコミも、いわゆるワイドショー等に於いて、キャスターがコメンテイター的な発言をすることを許している為に、偏向を生み易い、と前掲の大嶽氏が指摘しています。

See 大嶽infra, at 203.

ところでセンセーショナルでサプライジングで刺激的な側面ばかりが偏向して伝えられやすいという指摘については、L.フリードマンも以下のような指摘をしています。

フリードマン, infra, at 1587-89. 確かにマスメディアは実際の法を正確に描いていません。しかしその偏向した姿によって大衆が法意識形成に影響を受けるでしょうから、問題があるはずです。

更に関連する分析として、「大衆の危険意識」も参照下さい。

なお、「マ○ド○ルド・コーヒー訴訟」が訴訟好きなアメリカ人≠ニいうステレオタイプとして日本人に受け取られているものとして、West教授の業績から例を挙げることができるかもしれません。

すなわち、カラオケ騒音に対する近隣紛争に於いて日本人が訴訟を余り提起しないことを研究したWest教授は、その訳を日本人に問うた結果を以下のように紹介しています。

Q: 近隣住人はカラオケ・バーを訴えるとは思いますか?
Ans: 思いません。殆どの場合、本当には訴えません。
Q: どうして訴えないのですか?
Ans: それには費用が掛かり過ぎるからですよ。更に訴訟は近隣関係を壊してしまいますし。あなた方アメリカ人がマクドナルドの熱いコーヒーを巡って訴えを起こすことは知っていますが、日本人はそのようではありません。裁判所に行くのは最後の手段です。訴訟は問題を起こすだけですから。

WEST, LAW IN EVERYDAY JAPAN, infra, at 112 (訳は評者、emphasis added). 

 

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非合理的な大衆意識

To Be Built.

とりあえず「フォード・ピント事件の真相」を参照下さい。

 

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隣人訴訟≠ノ対する大衆意識

参考文献: 小島武司、他『隣人訴訟の研究〜論議の整理と理論化の試み〜』(1989年、日本評論社)

p[原告πの死亡した子供]が泳ぐといって池に入ったが、d[被告凾フ子供]は普段からそういうことはしてはいけない、と言われていたので池には入らなかった。 … pは前にも父親と池に入って遊んだことがある。 …。
本件のごとく既存の溜池に近隣して造成された土地に居住する以上、不慮の事故のないよう子供に対し、平素から池に対する接し方をきびしく仕付けておくことは親の子に対する監護のあり方として当然なすべき筋合のものであるところ、同様の年代にある二人でありながら、pのみが、泳ぐといって水際から遠浅のところを五ないし十メートルも池の中央部へ進んで深みに入るという行動に出たことは、12に比しπ1π2の右の点に関する平素からのpに対する仕付けのあり方に至らぬところがあったこともその背景をなしているものと推認できる
『隣人訴訟の研究』, supra, at 4, 13 (emphasis added).

To Be Built.

 

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その他、納得が行かないと批判されている裁判例(日本)

以下、多くの人々が承服し難いと指摘する日本の裁判例です。

これらは「権利万能主義」の弊害や、「他人の権利への平等な尊重」の欠如、「何でも他人の所為(せい)にする」という傾向の発露、あるいは、いわゆる「法化」社会を象徴する事例かもしれません。

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カラオケ騒音訴訟に見る日本人の法意識

アメリカには見られないカラオケの騒音訴訟。その日本的特徴を分析したWest教授の分析です。

関西地区に於けるカラオケ騒音の49名の苦情に関し、その全件について訴訟が提起されていない点を不思議に思ってその理由を尋ねたところ、42名は訴訟の費用が高額過ぎる点や、判決までに時間が掛かり過ぎる点等の、司法制度上の理由を挙げたということです。訴訟を提起することが日本社会の規範に反すると答えた者は僅か2名に過ぎませんでした。訴訟に持って行かずに行政手続で済まそうとする苦情者達の主な理由は、司法制度に起因する費用だったのです。

See WEST, LAW IN EVERYDAY JAPAN, infra, at 113-14, 124.

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熱いコーヒーが欠陥であるというPL訴訟に対する大衆意識

To Be Built.

とりあえず、「マ○ド○ルド・コーヒー訴訟」を参照下さい。

 

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ファーストフードの食べ過ぎで肥満になったという訴訟に対する大衆意識

To Be Built.

とりあえず「マ○ド○ルド肥満訴訟」を参照下さい。

 

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日本に於ける伝統的な「法意識」研究への批判

Portは、伝統的な日本人の法意識感と、近年の反論とを、以下のように紹介しています。

伝統的な解釈

近年の反論

権利を実践しないのは和を尊ぶからではなく、本当は権利を実現したいのにもかかわらず司法制度が不備だから我慢しているのだ。
John Haley教授の著書が日本では最近支持を得ている。
正式な法手続に持ち込んでも結果が予見できるので、敢えて法手続に至る前に示談的解決に至っている。
大部分の紛争解決は正式な法手続によることなく済まされてしまっている。権力が弱者を抑圧するために利用されている…。

出典: Kenneth L. Port, The Case for Teaching Japanese Law at American Law Schools, 43 DEPAUL L. REV. 643, 662-70 (1994).

次にWest教授は、以下のように解説しています。

出典: MARK D. WEST, LAW IN EVERYDAY JAPAN: SEX, SUMO, SUICIDE, AND STATUTES 91 (2005, The University of Chicago Press).

アメリカ田舎町に於ける訴訟≠ノ対する法意識

以下の論文は、米国の田舎のある匿名の[イリノイ州の]郡に於いては、人身損害(personal injuries)事件に関する不法行為訴訟を提起することが社会規範から好ましく無い行為だと思われている、と指摘する興味深い研究です。

David M. Engel, The Oven Bird's Song: Insiders, Outsiders, and Personal Injuries in an American Town, 18 LAW & SOC'Y REV. 551 (1984).

日本は訴訟嫌いな社会でアメリカは訴訟[好き]社会だ、というステレオタイプな思考に対する良い反論材料に資するかもしれません。(分析中、以下要旨)

この匿名の、仮にSander Countyと名づけられた人口2〜3万人の農業を中心としながらも近年は工業労働者等のアウトサイダーが住むように変容しつつある郡では、多くの人々が、人身傷害を被るリスクは人生の一部として止むを得ないものだと思っている。   Engel, at 558 (emphasis added).
人身傷害を他人への訴訟に転換(transforming)することは、自身の責任から免れようとする試みであると捉えられている。「寄与過失」や「危険の引き受け」の心理はこの地方の文化に深く根付いている。   Engel, at 559 (emphasis added).

要約者注: 米国に於ける近年の進歩的な一連の訴訟--例えば、熱いコーヒーが欠陥だとか、ファーストフードの食べすぎによる肥満訴訟等--を巡る賛否両論は、ここでの指摘、すなわち「自己責任」の倫理 対 権利追求の思想の対立であると分析可能ではないでしょうか?

金銭は苦労した長時間労働の成果として得るべきものであり、事故の不運を陪審員等の他人に見せて得るものではないと思われている。   Id (emphasis aaded).
住民は互いに直接または間接的に知り合っている狭いコミュニティーであり、互いに将来どこかで関係する蓋然性が高い。従って他人を拒絶するような態度[=訴訟]は反感を買いがちである。   Engel, at 559-60.
子供を交通事故で失ったある女性は、わずか1万2千ドルで提訴さえすることなく示談に応じた。その額は少な過ぎると思っているにもかかわらず、該地域に今後も長年住み続けるのだから、提訴により「訴訟沙汰」("involved in a lawsuit")を起こしたと捉えられることが怖かったというのである。   Engel, at 561 (emphasis added).
旅客機でstewardessから熱いコーヒーを零(こぼ)されて皮膚に恒久的な火傷を負った住民は、弁護士に相談することなどは拒んで、治療費と一週間労働できなかった得べかりし利益を示談金として航空会社から受けて即座に示談解決してしまった。なぜ提訴しなかったのかとの質問に対し、「私達はそういうことはしないのだ」と簡単に返事された。    Id.

要約者注: 熱いコーヒーが欠陥であると提訴して高額評決が下った例と、好対照な事例だと思われますが、如何でしょうか?

人身傷害事故に巻き込まれた際の住民の典型的な反応は、友人や、隣人や、親戚等に頼るということである。事故原因の危険(hazard)が他人にも危険を及ぼすおそれがある場合は特に、郡の健康局や市長等もしばしば頼られる。しかしその目的は、自己の利益、賠償を求めることにはなく、公衆の利益のために頼るのである。   Engel, at 562.

要約者注: 利他主義的倫理 対 利己主義、という文脈で捉えても興味深いと思われますが、如何でしょうか?

自動車ディーラーの敷地の裏にあったゴミ箱の上に登った女の子の上にそのゴミ箱が倒れて負傷した親が提訴した事例では、原告いわく、彼らが隣の家からも無視され、かつ避けられている「アウトサイダー」("outsiders")だったと述懐している。1万五千ドルを請求する提訴後、入信して心を入れ替えたところ提訴したことを後悔し、わずか3千ドルでの示談解決に至った。そのわずかな金銭が夫との諍(いさか)いを起こし、しかも近くの全てのゴミ箱には子供をそこで遊ばせるなという表示が貼られ、母親は提訴すべきではなかったと思っている。   Engel, at 569-70.
被害者の両親がもし昔からの住人だったならば、子供の負傷はもっときちんと監視していなかった自分達のせいであると自らを責めた("tend to blame themselves")に違いない。    もし逆に両親が新規参入者だったならば、自動車ディーラーとゴミ処理業者が損害賠償の責任を取るように積極的に求めることになろう。後者の場合は、あるいは、「戦うか逃げる#ス応」("fight-flight " reaction)を示すかもしれない、と牧師は述べている。すなわち皆が攻撃するならば反撃しようという反応を示すか、または、地域社会から逃げ出してしまうという「逃げ」("flight")の反応を示すというのである。   Engel, at 570-71 (emphasis added).

要約者注: 日本に於ける隣人訴訟を巡る論議にも関係がありそうな指摘ではないでしょうか?

アウトサイダーとされた人々にとって裁判所は、アウトサイダー達と地元民達との「社会的な距離」(social distance)を緩和することが可能な「平等主義者」(a "leveler")の役割を果たしている、とある学校教師は語っている。   /   隔絶された人々と周りのグループとの間のコミュニケーションの場(a forum)を裁判所が提供しているのである。   Engel, at 571, 72 (emphasis added).

要約者注: 地域社会に於いて疎外された人々にとって裁判所が果たす重要な役割を指摘しているのではないでしょうか?

不法行為訴訟が否定的に捉えられているのとは反対に、契約違反者に対する権利追及は肯定的に捉えられれている。   債権者による自力救済(self-help)の乱暴的試みでさえも、必ずしも非難されないのである。かえって警察が、債務者による契約違反=違法行為に対する法執行を肯定するような発言さえも、保安官事務所の者からあったほどである。   /   契約違反は、倫理的に法を破る行為なのである。    Engel, at 576-77.
一方では契約上の合意が社会秩序を維持するために不可欠であると看做され、他方では他人に傷害を被らせてはいけないという注意義務が既存の関係に対する侵害であると看做され、[賠償金銭]交換を強制し、富を再配分しようとする不当な試みであり、個人の自由に対する制限になると捉えられている。   Engel, at 577.
Sander Countyは近年、工業労働者が住むようになり変化して来ている。   既存[の価値観]を脅かし、かつ、混乱を生じさせている社会変化に対して、不法行為訴訟への非難は、地域社会が束帯を維持しようとする象徴的な事象の一側面として重要である。   Engel, at 580.    

要約者注: 日本に於ける隣人訴訟を巡る論議にも当てはまりそうな指摘ではないでしょうか?

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初期入植者時代にはアメリカでも訴訟が支持されていなかった

と興味深くChaseが以下のように指摘しています

英国からの初期入植者達は、ユートピア的な宗教に動機付けられていた為に、共同体社会の理想を抱いていた。
そこでは紛争解決の仕組みも、個人的(individual)なものであってはならず、共同体社会的(communal)なものでなければならなかった。
そのスタイルも同意を求めるやり方(consensual)であって、対立構造的(adversarial)ではなかったのである。
訴訟は「明確に思い止まらさせられた」("explicitly discouraged"のであって、紛争は共同体社会的に解決されることが期待された。
しかし共同体社会的な考えと慣行は、多様な人口[の増加]等の社会変化を生き残れなかったのである。

See CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL, infra , at 100-01.

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裁判依存症(hyperlexis)への批判

アメリカに於いてさえも、本来は裁判に適さないような紛争事を何でも訴訟にしてしまう風潮を批判する向きもあります。以下はChaseの指摘です。

社会の多くの問題の解決を法律に頼り過ぎる(overreliance)状態の「hyperlexis」を批判する者も居る。
彼らに拠ればこのhyperlexisこそが訴訟案件の爆発的増加(mashrooming caseload)とそれに伴う遅延の原因である。
裁判所がリーズナブルな費用で解決するには適さないような事件さえも訴訟にされることが問題視されているのである。

See CHASE, LAW, CULTURE, AND RITUAL, infra , at 105-06.

続けてChaseは、訴訟よりもADRが望ましい場合もある点を以下のように紹介しています。

訴訟の津波(litigation tsunami)の脅威から裁判所を護ることへの関心に加えて、ADRはコミュニティの関係を向上させる可能性がある。
[調停は]二人の当事者の長期的な関係に治癒的効果(therapeutic effects)を与え得る。何故ならば両者が自由に意見を交換する機会を与えて、将来の関係を再構築することを助けるからである。

See id. at 108.

なお、「therapeutic jurisprudence」(治療学的法学)については、当ウエブサイト作者の「損害賠償責任の目的は何か?」のページ内の「加害者へ『制裁』を与えることが、不法行為法の『修復的』[効果の]可能性the restorative potentialを高める」の項を参照下さい。

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大岡裁き≠ニ衡平*@的な正義  OOKA THE WISE and Equitable Justice

「衡平法」(equity)とは…(その一)

アリストテレスは、「衡平法」(equity)という文言の語源である「エピエイケイア」(epieikeia)について、以下のように説明しています。(語源「epieikeia」については後掲「「衡平法」(equity)とは…(その三)」の項を参照下さい。)

宜しさ」(エピエイケイア)(七三)ならびに「宜」(エビエイケス)ということについて、宜しさというものは正義に対していかなる関係にあるのか、「宜」ということは「正」ということに対していかなる関係にあるのかを次に述べなくてはならぬ。…。/ 問題の根源は、しかしながら、「宜」は「正」であっても、それはしかし法に即してのそれではなく、かえって法的な「正」の補訂にほかならないというところに存する。…、法はすべて一般的なものであるが、ことがらによっては、ただしい仕方においては一般的規定を行いえないものが存在する。それゆえ、一般的に規定することが必要であるにもかかわらず一般的なかたちではただしく規定することのできないようなことがらにあっては、比較的多くに通ずるところを探るというのが法の常套である。その過っているところを識らないではないのだが---。しかも法は、だかたといって、ただしからぬわけではない。けだし過ちは法にも立法者にも存せず、かえってことがらの本性に存するのである。…。もし、だから、法が一般的に過ってはいても時として一般的規定の律しえないような事態が生ずるならば、その場合、…、不足せることがら---立法者がその場合に臨めばやはり彼自身も規定のなかに含ませるであろうような、そうしてもしすでにそれを知っていたならば立法しておいたであろうような---を補訂するということは正しい。「宜」が「正」でありながら或る種の「正」--- …無条件なるがゆえに過ちであるような「正」---よりもよりよきものたる所以である。すなわち、これが「宜」ということの本性にほかならない。法が一般的なるがゆえに不足している場合における法の補訂たることが---。…、それに関して法を立てることの不可能であるごときことがらもあるのであって、さればこそ「政令」(プセーフィスマ)というものの必要もあるわけである。まことに、非固定的な事物に用いる規定は、やはりまた非固定的なものであることを要する。…。/ かくして「宜」とは何であるか、すなわち、それは「正」であり、しかも或る種の「正」よりもよりよき「正」であることが明らかとなった。宜しきひととは…、ここからして明瞭である。つまり、…わるく杓子定規的でなく、むしろ、たとえ法が自分に有利であっても過少に取るというたちのひと、これが宜しきひとなのであり、かかる「状態」が「宜しき」なのである。
原注(七三)「エピエイケイア」は、equityと英訳され、法律用語では「衡平」と邦訳される語。

アリストテレス著、高田三郎訳『ニコマコス倫理学(上)』208-10頁1971年、岩波文庫)(下線付加).

なるほど、このアリストテレスの指摘・分析は、いわゆる「大岡裁き」にも共通していると当ウエブサイト作者には感じられるのですが、如何でしょうか?

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「衡平法」(equity)とは…(その二)

衡平法equity)」とは、米国の権威ある法律辞典『ブラックス・ロー辞典』によれば、以下のように定義されています。

  Justice administered according to fairness as contrasted with strictly formulated rules of common law.  It is based on a system of rules and principles which originated in England as an alternative to the harsh rules of common law and which were based on what was fair in a particular situation.   One sought relief under this system in courts of equity rather than in courts of law.  The term "equity" denotes the spirit and habit of fairness, justness, and right dealing which would regulate the intercourse of men with men.  ....
  A system of jurisprudence collateral to, and in some respects independent of, "law"; the object of which is to render the administration of justice more complete, by affording relief where the courts of law are imcomplete to give it, ....  

BLACK'S LAW DICTIONARY 540 (6th ed. 1990) (emphasis added). 

ここで筆者が言う「衡平」とは、法的安定性等を主に目指した厳格冷徹な法とは峻別される、個別案件に於ける妥当性や公正さを目指した概念であり、前掲引用文の中の特に第四センテンスで指摘されている、「人々と人々を規律することになる公正、正義、および正しい扱いの精神と慣習」を包含した概念です。

日本の伝統的な司法運用や大衆の望む司法判断は、もしかすると「大岡裁き」的なものであり、それはすなわち「衡平法」的なものだったのではないか、という筆者の考えに関し、以下のウイグモアの指摘が、何らかの端緒または支持を与えてくれそうな気がしています。

... the chief characteristic of Japanese justice, as distinguished from our own, may be said to be this tendency to consider all the circumstances of individual cases, to confide (信頼して〜を託す) the relation of principles to judicial discretion, to balance the benefits and disadvantages of a given course, not for all time fixed rule, but anew in each instance, in short, to make justice personal, not impesonal.

John H. Wigmore, The Administration of Justice in Japan, PENN. U. L. REV. 437, 438-39 (1893) in Annelise Riles, Wigmore's Treasure Box: Comparative Law in the Era of Information, 40 HARV. INT'L L. J. 221, 265-67 (1999) (emphasis added).

たとえば、日本が「製造物責任法」を制定した際の欠陥の定義の在り方を巡る議論では、同法の最先進国たる米国の知見と経験で示された合理的・科学的な分類化された定義を採用することに対して、日本の立法関係者達が執拗に反対し、結局は、米国では30年も昔の曖昧さの残る基準で欧州がそれに倣った時代遅れの欠陥定義を採用してしまいました。 ルールの曖昧さを残すことに固執するという態度は、これをもし良く解釈すれば、ウイグモアが指摘する日本流の柔軟さを残しつつ広範囲な裁量権を裁判官に付与したがる、という伝統文化にも関係しているのかもしれません。

もしかしたら「大岡裁き」の妙味が、日本に於いて望ましいとされる紛争解決の仕方にいまだに生き続けているのかもしれません…

To Be Built.

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「衡平法」(equity)とは…(その三)

以下のBilelloの指摘は、衡平法の特徴を理解するのに役立つでしょう。

16世紀に英国で理解されていた「equity」の概念は、アリストテレスが「ニコマコス倫理学」(Nichomachean Ethics)に於いて論じた「epieikeia」にまで遡る。ここでアリストレレスは「正義」("justice")と「衡平」("equity")の概念を精査している。法([t]he law)は一般的規範の集合体(a collection of general rules)として発展したけれども、その機械的な適用(the mechanical application)は法的には正しく(legally just)ても具体的事例に於いては問題があり得る、とアリストテレスは説く。この欠陥を矯正する為に、厳格で無修正な法の適用が法を与えた者(lawgiver)の意図に反することになる場合には、規範は法を与えた者があたかも現存して具体的事例を知っていたかのように適用されなければならない、と衡平は要求する。… アリストテレスにとって衡平は、立法者の意図と一致させたやり方による制定法の創造的な再構築(the imaginative reconstruction of statutes)なのである。 …以上のような法哲学の強調は、法[の硬直性]に対しての柔軟性という対策を持ち込むことになるけれども、法の安定性を減じる(reducing it certainty)ことにもなる。同時に具体的事例に於ける裁判官の役割を増強させる。法が実際に衡平に反しているか否かを裁判官に決定させ、もしそうならば衡平は何を要求しているのかを裁判官に決定させるからである。
「法の過酷さを和らげて減じる」("tempre and myttygate the rygoure of lawe")為に、「法の文言」("wordis of lawe")を「理性と正義」("reasone and justyce")に対して譲ることを、衡平は要求する。…。 人の法(the law of man)がその一般性ゆえ(by reason of its generality)に、神の法(the law of God)を侵し、または具体的事例に於ける理(reason in any particular case)を侵した場合、衡平は例外として介入しなければならない。…。 衡平は法の厳格な文言(strict "wordes of the lawe")に従うよりは、むしろ、法の意図("intent of the lawe")に従うのである。裁判官は、法の衡平的な適用を実現する為に、法を与える者の意図を再構築しなければならない。

Bilello, infra, at 110-11.

To Be Built.

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「衡平」(equity)および裁量権と、「法の支配」(rule of law)との相克

以下の三点に於いて、衡平は法の支配と抵触する。
1.規則性(regularity)を侵す --- ∵同様な事件を異なって取り扱ってしまう。 
2.公表性(publicity)を侵す --- ∵事件に適用された規範は判決が出た後にしか知らされない。
3.通則性(generality)を侵す --- ∵事件の中の
特異な事実/個別性に焦点を当てて裁いてしまう。
「裁量権」(discretion)というものも、上の特性に合致する。∵衡平は裁量権の内の特別なケースだからである。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 169 n.17.

上の分析は確かに鋭いと思われます。公正さの前提は同様な紛争が同様に裁かれることに依拠しているはずですし、罪刑法定主義や法の支配の前提は規範が事前に公表されていることだからです。

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硬直化した「法の支配」に対する衡平(裁量)の重要性

裁量を欠いた規範は、特定の事件のユニークな事実や状況に合わせた結論の必要性を十分考慮に入れない。如何なる司法管理制度に於いても裁量権という大きな対抗策(measure)を有していたのである。裁量権は統治の不可欠な側面であり、特に司法手続に於いて不可欠である。法的権利は以前に確立した規範の適用のみを通じて決定され得るという無茶な法の支配(extravagant version of the rule of law)はよろしくない

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 74 (emphasis added).

確かに大岡裁きが大衆に受ける理由は、結果妥当性を欠いた規範の硬直な適用を回避して妥当な結論に至らしめる知力(mind)にこそ存在するのではないでしょうか。

そのような知力は、相対立する利益である規範の一貫生等のrule of lawを損なわないように行使しなければならず、それ故に難しいものだからこそ、それが上手く行使された場合には尚更に大衆の支持を得るのかもしれません。

なお、equityとrule of lawとの相克と衡平法の重要性を、「法と文学」の観点から、法と経済学者のR. Posnerがシェークスピア作「ベニスの商人」を題材に指摘しています。拙ウエブページ「シェークスピアと法と文学≠フ研究」内の「法の硬直性に対する柔軟性の必要性に関するリチャードA.ポズナー判事の解説」の項を参照下さい。

ところでAsimow & Naderは更に、裁量権がrule of lawの硬直性と欠陥への批判を回避する為に正当化されて来たとする、興味深い分析を以下のようにして行っています。

裁量権の法理は、rule of lawへの信頼の喪失を心配したことへの反応なのである。
「アサヒ・メタル」事件[要約者注1]が例示するように、法的推論(legal reasoning)の動向は、規範に縛られた形式主義(rule-bound formalism)から、諸要素考量政策分析のアプローチ(factor-weighting policy-analysis approach)へと変化して行った。Cardozoも『NATURE OF THE JUDICIAL PROCESS』の中で以下のように述べている。
どの法律分野に於いても、規範の社会的価値が益々有力かつ重要な基準になって来た。Pound法務研究科長が書いたように…『現代の法律科学に於いておそらくは最も重要な進歩は、…機能的態度への変化である。』
Cardozoは他でも次のように言っている。「諸概念の専制政治(the tyranny of concepts)は、…不正義の誠実な両親である」と。更に以下のように言う者も居る。
19世紀前半の裁判所は、[原理と功利主義との間では]原理に固執して紛争を解決する傾向に傾いていたようである。裁判所は個別の事件に於いて正義を行うことを余り心配せず、むしろその判決が将来に及ぼす影響の方を更に心配したのである。これとは逆に、現代では、裁判所が非常に功利主義的になって来て、原理に囚われることが薄らいで来ているようである。
新しい法的推論の様式は、より良いパブリック・ポリシーを作る司法判例へと導くことを約束していた。その様式の問題点は、法律というよりは政治のように見えるの為に法の正当性の主な主張であるところの自律性(autonomy)を脅かすことにあった。
ここに於いては事件の実際の結論は、今まで以上に社会政策の好みまたは個人的好みの問題として裁判官が、何を正しい結論であるかと捉えるか次第に懸かって来るようになったのである。何故なら裁判官は、意識的であれ無意識にであれ、その好む結論を命じる規範を選ぶからである。
…。
裁量は、法規範が許容するからこそ許されるのである。従って裁量を許容することによりrule of law自身は恒久的に存在し続けることができるのである
…。
The open adoption of a limited form of discretion created an area of legal activity that is not "law."  It therefore helped prove that there was another regime, which was "law." 

[要約者注1] 同事件は、「抵触法」(日本に於ける「国際私法」)の国際裁判管轄権(jdx: jurisdiction)に関するリーディング・ケースとして非常に有名な判例。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 86-92 (emphasis added).

上の指摘は、「リーガル・リアリズム」(法の真相は法律判例や条文自身にでではなく、むしろ裁判官の思想次第に懸かっているという現実を指摘)の潮流を分析しているように読めます。

更に上の記述は、当ウエブサイトの筆者の専門である「製造物責任法」に於いて、嘗てはそれが「無過失責任主義」というドグマに支配され、固執して来たというPL法制史を思い起こさせます。つまり嘗てはアメリカでも(そして極東の法律後進国の日本では未だに?!)そのようなドグマに支配された判例や学説が支配的でしたけれども、そのような判例・学説では正義に反することが先進国アメリカでは次第に大量の判例経験と共に判明し、今では必ずしも無過失責任主義ではなく、むしろ「機能的」に欠陥を認定すべきであるというルールが指導的となって来ているのです。

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アメリカ民事手続法に於ける衡平・裁量権の拡大

1906年にRoscoe PoundがABAに対して行った以下の有名なスピーチは、アメリカ民事手続法が柔軟性と判事の裁量権の拡大を志向したことを象徴している。
「司法管理に対する大衆の不満の諸原因」と題するその演説の中で、彼は以下のように言っている。
裁判官には、正しいことを行う為の広範囲な裁量権が付与される。…
何時の時代でも、全ての法に対する最も重要かつ最も継続的な不満の原因は法的規範の機械的な機能(mechanical operation of legal rules)の中に不可避的に発見されるのだ。
技術的理由から必要な事件が放り出されてしまうような公式ルール(formal rule)による制度は、「現代の事業社会に於いては時代遅れである」と彼は分析したのである。
1848年にニューヨーク民事訴訟規則を整備・起案したDavid Dudley FieldによるField Codeは、柔軟性がrule of lawに反するとしてformalismを志向したけれども、Poundの後の連邦民事訴訟規則(FEDERAL RULES)は柔軟性を具現化したのである。
更に手続法は効率性と生産性を重視するようになり、それ故に硬直な手続を容赦せず、同時に無駄を省いたルーチン化を要求することになって行った。
Poundの主張は1938年のニューディール政策時代に、行政府の権限強化を通じて実現されることになる。政策が機能する為の核心は、裁量的権限だったからである。政策を荷う官僚達には、企業のマネジメント同様に柔軟性と広範囲な裁量権が必要だったのである。すなわち、効率性と、柔軟性と、裁量権が、当時の風潮だったのである。
その象徴とでもいうように、20世紀中頃に建造された裁判所は、嘗てのようにギリシャ神殿を模すことはなく、企業の本社(corporate headquaters)のような効率性を讃えた構造を有しているのである。

See ASIMOW & MADER, LAW AND POPULAR CULTURE, infra, at 82-___.

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「大岡裁き」伝承の全てが実際の話ではない

この点は、ウイグモア自身も知っていました。すなわち以下のように述べています。

...今でも熱心に読まれて賞賛される事件は、全ての点に於いて本当の記録上の事実という訳ではないけれども、少なくとも日本の大衆が前世紀の裁判官の理想的な資質であると看做しているものを代表しているのです。

Wigmore, Japanese Causes Celebres, infra, at 563(訳は評者).

評者も、正にこの点こそが、大岡裁きを「衡平法」(equity)との比較という観点から研究したく望む理由です。

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大岡裁き℃j料

以下、古過ぎる資料ですが、復刻版を入手しました。

以上の出典は、ウイグモア法科大学院長の業績リスト in 75 NW U. L. REV. (supp.) 28-29, 30 (19__).

 

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参考文献・出典

First Up-loaded on May 2, 2005.

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【未校閲版】without proof

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